ケータイ辞書JLogosロゴ 岩崎郷(中世)


山梨県>勝沼町

鎌倉期〜戦国期に見える郷名山梨郡のうち現勝沼の大善寺の嘉元4年の記録に「岩崎一分地頭武田筑前権守源武政」とあるのが初見(国志)この地は,武田信光の子信隆が領して岩崎氏を称したといわれ,下岩崎には同氏の館跡と伝えられるところが現存する現上岩崎の氷川明神の寛正2年3月28日の棟札によると,至徳2年6月1日には同社を前筑前守源武政が再建しているが(同前),初見史料に見える武政とは80年ほどの隔たりがあり,同一人物とするには疑問があるまた,先の棟札によると,寛正2年跡部上野介景家が同社を再興した際には,当郷の小沢入道沙弥知寸,諏訪部左京亮信政が関係していたことが知られる(同前)長禄2年正月8日,守護代跡部との戦いで,岩崎小次郎,同源次郎,同洲輪部らが戦死(一蓮寺過去帳),岩崎氏は滅亡したという(国志)以後当郷の領主については定かではない戦国期には,武田晴信が大善寺へ大般若免として当郷内8貫文,権現分として7貫文の合計15貫文の地を寄進したことが知られるのみである(大善寺文書/甲州古文書1)天正10年,武田氏滅亡後に甲斐に入った徳川氏は武田家旧臣に本領安堵・所領充行などを行うが,天正10年8月21日の徳川家印判状では野沢二右衛門に本領として「岩崎之内」3貫文ほかを(野沢藤麿家文書/甲州古文書3),同年12月5日の徳川家印判状では内田鈎之助に本給として「岩崎之郷」13貫文ほかを(内田美全家文書/甲州古文書2),同年12月9日の徳川家印判状写では辻弥兵衛盛昌に本領として「岩崎之内長延寺分四拾弐貫文,同所之内小山田弥五郎分内五貫八百文」などを(譜牒余録/甲州古文書1),それぞれ安堵しているまた同11年4月26日の徳川家康印判状写で,大善寺領として安堵された「岩崎之内弐貫七百文」は,当地のことかと思われる(大善寺文書/同前)江戸期には上岩崎村・下岩崎村に分村したが,同17年11月17日の伊奈忠次知行書立写には「下岩崎郷」と見えるので(川窪信俊所蔵文書/甲州古文書1),戦国末期にはすでに分かれていたことが知られる現在の勝沼町上岩崎・下岩崎付近に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335177
最終更新日:2009-03-01




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