ケータイ辞書JLogosロゴ 岩殿村(近世)


山梨県>大月市

 江戸期〜明治8年の村名。都留郡のうち。郡内領に属す。もとは畑倉村・強瀬【こわぜ】村とともに1村で,「慶長古高帳」では「はたくらこな(わの誤記か)せ」と記される。寛文9年検地の時に3か村に分かれた。はじめ谷村藩領,宝永元年からは幕府領(おおむね石和【いさわ】代官所谷村出張陣屋の支配)。村高は,「寛文九年甲斐国郡内領高辻帳」「享保郷帳」ともに69石余,「天保郷帳」83石余,「旧高旧領」79石余(うち七社除地9石余)。高69石余のうち田高は14石余にすぎず,畑作に依存する山村であった。このため山稼ぎと絹・紬織りが生業中に大きな比重を占めた。文化初年の戸数45・人口201(男101・女100),馬18(国志),天保3年の家数46・人口197(村高七通順一州諸留)。助郷は,四日市場村・下和田村とともに甲州街道上花咲・下花咲両宿へ出役。寺院は岩殿山七社権現常楽院・大坊・真蔵院があった。常楽院は七社権現別当として,慶長6年谷村藩主鳥居久五郎成次より10石の寄進を受け,京都聖護院より法印に補任され,修験本山派の郡内山伏支配頭・触頭を代々つとめた。正保〜慶安年間頃には常楽院から大坊が分かれ,従来常楽院の支配した山伏や霞場(なわばり)を二分した。明治5年の修験廃止を経て,明治8年廃寺となる(大月市史)。岩殿山真蔵院は新義真言宗に属し,常楽院の内庵といわれ,正保2年賢弘法印によって中興された。明治期以降は廃寺となった円通寺とその関係諸坊の遺品を所蔵しており,うち常楽院旧蔵七社権現木像は県文化財。なお応永6年円通寺に奉納された版木大般若経は,大部分が当地北条家に所蔵されている。村高69石余に対し,常楽院などの除地高は40石余におよび,当村が修験に密接に関係する村落であったことを如実に示している。明治4年山梨県に所属。同8年賑岡村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335189
最終更新日:2009-03-01




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