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「魚町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

魚町(近世~近代)


江戸期~昭和39年の町名江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町甲府築城にともなう新城下町造営により成立町人地城下の東南に位置し,三ノ濠で囲まれた郭内にある...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7335221]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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魚町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は小倉城下の1町小倉城の東,紫川と砂津川の間に位置し,町並みは南北に延びる北は米町,南は紫川に注ぐ神岳【かんたけ】川,東は鳥町,西は大坂町・武家屋敷と接する東曲輪のうち西曲輪にも同名の町があり,西の魚町に対して東魚町ともいった寛永元年に「東小倉魚町屋頭もち屋より出火」の記録があり,同6年には「東魚町三町」と町並みが成立していたことが知られる正徳年間には1~4丁を数え,享保年間頃,3丁目の西側に瓦葺の二階屋が3軒立ち並んで大勢の見物人が集まったという(倉府見聞集)享保17年の飢饉による餓死者は67人(開善寺過去帳)幕末期には1丁目27軒・2丁目30軒(うち11軒は万屋仁兵衛抱持)・3丁目30軒・4丁目46軒余の町家が見える(城下町屋敷絵図)魚屋の屋号をもつのは2丁目に1軒のみであるが,町名にふさわしく,紀国屋・長浜屋・油屋など魚問屋がある文久年間の城下酒造業者24軒のうち,魚町2丁目に米屋和助,同3丁目に木屋藤兵衛,同4丁目には岡野屋権三郎・米屋十右衛門の名前がある4丁目の神田屋岩蔵は醤油製造業,久松屋吉左衛門は質屋商,2丁目の大黒屋儀兵衛は薬種商を営んでいた(小倉市誌)明治17年の戸数129・人口623同22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年北九州市小倉区,同49年からは同市小倉北区に所属昭和46年からは1~4丁目がある同46年鳥町と京町・米町・大坂町・堺町・鍛冶町・船場町・紺屋町・古船場町の各一部を編入昭和22年の世帯数181・人口830(男387・女443)1・2丁目の間を西鉄北九州線,東端を都市モノレール小倉線が通る東の平和通り沿いには各種金融機関が並び,中央部には銀天街と称する商店街があるかつて旦過町と通称された4丁目付近には生鮮食品の店が集まり,北九州の特異の商店街となっている世帯数・人口は,昭和50年275・886,同58年163・433

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~昭和47年の町名江戸期は津城下の1町町人地城の東側に位置し,北は蔵町に接する元禄年間に浜魚町が魚町・北浜町・南浜町・片浜町の4町に分かれて成立地名の由来は,元和5年に開削された堀川の近くに水夫・漁師が集住し,漁業を浜町に行わせ,魚問屋を当町に置いたことにちなむ藩の舟手の夫役や難破船救護などの浜役を課せられる元禄5年には,魚問屋9軒,仲買頭・仲買48軒がある問屋の年間売上高は1万両を超えたという(津市史)明治4年には,他の町の者も加入した魚商会が開設されたが,同6年には解散した戸数は明治5年61,同17年61同22年津市に所属同26年の市内有力問屋・海産物商14人のうち11人が当町に居住(県下商工人名録)大正元年には津魚市場が設立された昭和12年頃の町内には仲買24人・魚商14人がいた(県の聚落景観)昭和20年7月の空襲で町は焼失し,第2次大戦後の復興後は大門商店街に隣接する商店街・住宅街となる魚市場は昭和21年頃乙部へ移転町の南部は市道津港河辺線(フェニックス通り)で分断された世帯数・人口は,昭和36年34・124,同44年35・110同47年フェニックス通り以北は大門,以南は東丸之内の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は倉吉陣屋町の1町陣屋町の中央部,玉川の沿岸に位置し,南は武家屋敷地(葵町),東は横町と接する町名の由来は,魚介物を扱う商人が多かったことによると伝える寛延年間の倉吉御陣屋図によると竈数56・間数150間余明治初年の戸数64・人口237(県戸口帳)元禄8年・寛延3年の大火で焼失有力町人が居住した地であり,木綿問屋山城屋(桑田家)・清谷屋(船木家)などは京・大坂の問屋へ荷送りをした天保5年の久原山口両御番所出入荷物改帳控によると,岡崎屋治兵衛が塩鯺12個,小石屋長兵衛が稲扱き16個(192挺)・釘24個,清谷屋甚兵衛が木綿710個(5万5,500反)・釘15個・伊手【いたら】貝干身30個,田中屋弥兵衛が釘21個を出荷し,吉田屋長兵衛が紙雛24個,山屋徳兵衛が同19個を入荷している玉川沿いには江戸期から明治期にかけて白壁土蔵群があった明治22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属世帯数・人口は,同35年65・294,同55年52・148...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は福岡城下の1町福岡城の北東に位置し,町並みは本町と大工町との間に南北に連なる町名は,魚店があったことに由来する元禄3年の家数36(続風土記)文化3年家数30・人数119,間数75間余(文化9年福岡・博多地図)元文5年,六町筋にあった魚・鳥・野菜の店は魚町または万町に移るように命じられ,またこの頃相物(海産物)問屋仲間があった(福岡藩町役所記録)町内に恵比須神社があった町は南北1町29間,東西26間明治11年福岡区に所属同12年の戸数48・人口216(男107・女109),民業は工3戸・商27戸・雑3(福岡区地誌)同22年福岡市の町名となる同23年の戸数43・人口214大正末期,地内に私立川島裁縫女学校(現川島女子専門学校)が移転(福岡町名散歩)昭和39年舞鶴1~3丁目・大手門1~3丁目・赤坂1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町(近世~近代)
江戸期~現在の通称地名津和野城下五か村の1つ後田【うしろだ】村のうち魚町・下魚町に分かれている寛永年間,津和野藩主の命により魚市場問屋が開設され,以後江戸を通じて発展「七浦たずねて魚なくば津和野へ行け」というほどの発展をみせた明治期には民間の魚市場が開設,第2次大戦で物資の統制が行われるまで栄えた現在では旅館・料理屋が並び,下魚町は住宅街となっている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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