ケータイ辞書JLogosロゴ 江草郷(中世)


山梨県>須玉町

 戦国期に見える郷名。巨摩【こま】郡のうち。永禄3年12月17日の武田晴信印判状(桑原彦次家文書/甲州古文書2)に「弐拾盃〈江草〉」とあるのが初見で,武田家への漆納入が命ぜられ,当郷からは漆20盃が出され,その他の地からのものと合わせて160盃を納入している。また永禄4年閏3月吉日の武田晴信禁制に,府中八幡宮の廻番の勤仕として「六十八番 江草の禰き」と見え,当郷の十五所明神の禰宜が2日2晩,府中八幡宮に出向し,国内安穏を祈祷する行事に参加していたことがわかる(八幡神社文書/甲州古文書1)。以上が武田信玄の時代であったが,つぎの武田勝頼の時代には,天正4年4月3日の武田勝頼判物によって,国分寺(一宮町)の寺領のうち,信玄の時代に充行われた「江草之内 三丘寺分 壱貫五百文」ほか計22貫500文が安堵されたことが見える(国分寺文書/甲州古文書2)。武田家滅亡後,天正10年6月より甲斐に入部を始めた徳川氏は武田旧臣の本領安堵などを行い,天正10年6月17日の徳川家印判状写(御庫本古文書纂/甲州古文書2)によれば,武田家旧臣窪田助之丞正勝の本領として江草郷内で50貫文のほか計160貫500文と新知行145貫文が安堵されている。正勝はついで同年12月9日の徳川家印判状で「甲州本領江草郷五拾貫文」ほかで計150貫文の本領を安堵された。これと同時に武田氏時代の自身の被官35人を再びつけられている(同前)。「寛永諸家系図伝」「譜牒余録」によると,天正10年8月,小田原北条氏直が信州佐久方面より甲斐に侵入した際,当郷には北条方の城として江草根古屋があったが,徳川方に帰順した津金衆によって攻め落とされている。江草根古屋は江草城・獅子吼城ともいわれ,城の名はすでに「高白斎記」永正6年条に「十月廿三日,小尾弥十郎江草城ヲ乗取」と見える。さらに「国志」によると応永年間,守護武田信満の子江草兵庫助信康(泰)が居城したとあり,また永正10年12月26日の年紀を有する江草十五所明神の棟札に「大檀那武田彦六郎信意・小尾兵部尉藤原祐久別当彦二郎」ともあって,同城と武田・小尾氏とのつながりがうかがえる。江草信康は若年で没し,その跡を信康の弟信景に始まる今井氏が継いだといわれるが,永正〜享禄年間に守護武田信虎と争った浦(今井)信元は,先の棟札に見える武田信意と同一人物であるともいわれる(城郭大系8)。現在は塩川の東岸にある城山の山頂平坦部に城の主郭跡,そこから北東斜面には石積によって平坦にされた郭跡が4段にわたって残り,石垣・空堀跡もあり,さらに南西斜面にも5段程の郭跡などの遺構が存在する(同前)。なお,天長4年甲斐国に牧監がおかれたが,当郷付近は「一方ノ要枢」であったので「郡領・牧監ナドノ庁所ナラントモ見エタル所」であったという(国志)。また古代,後院領であった小笠原牧の北辺にあたるといわれ,比志・小尾を経て信州峠に通じ,また御岳や津金・若神子【わかみこ】にも通ずる要衝であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335263
最終更新日:2009-03-01




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