ケータイ辞書JLogosロゴ 大石村(近世)


山梨県>河口湖町

 江戸期〜明治22年の村名。都留郡のうち。郡内領に属す。はじめ谷村藩領,宝永2年からは幕府領(谷村・韮山・石和・市川の各代官所支配を経る)。村高は,「慶長古高帳」195石余,「寛永村高帳」145石余(195石余の誤りか),「享保郷帳」199石余,「天保郷帳」200石余,「旧高旧領」199石余(うち海蔵寺除地2斗余)。文化初年の戸数141・人口601(男301・女300),馬41(国志)。小物成として稗・糠・薪・渋柿・青草・茅などを上納(享保郷帳)。農業には恵まれず,富士山入会地で榾木などを伐採して駿河・伊豆・相模国へ売り出した(国志)。また猟師も多く,木挽き・大工もいた。承応年間には河口湖中の鸕鷀島の領有や薪刈りをめぐって対岸の小立村と争論が起こった。富士の裾野とは河口湖を隔てた位置にあるが,当村の名主弥十郎は富士山頂の山小屋の名主を勤め,富士への登山はこの名主宅を宿泊所として北口から登拝することを慣例としていた。これは当村の裏にそびえる十二ケ岳が修験道者の集合場であったことに関係があろうか。寺院は山の中腹に臨済宗海蔵寺があり,神社は文明11年の棟札を有する浅間神社や日月社など数社がある。明治3年の戸数195・人口917。同4年山梨県に所属。同6年海蔵寺を仮用して大石学校を開設。村の広さは東西1里10町・南北1里4町,地租改正後の反別は田6反余・畑137町余・切替畑21町余・村71町余など計240町余,地質は真土1分・砂交り2分・野土7分(市郡村誌)。同11年南都留郡に所属。同12年堀内雄右衛門は蚕糸の洋式紡績営業の下付願を出し,製糸勧業場を設立,同13年4〜5月には繭3石7斗5升,製造高3貫75匁5分,水車1馬力,工女8名,資本金500円との記録が残る。同14年には村内に水車の臼が34個あり,雑穀を粉にして主食とした。また溶岩流の風穴を利用して蚕の種紙を保存することも行われていた。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335299
最終更新日:2009-03-01




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