ケータイ辞書JLogosロゴ 大蔵郷(中世)


山梨県>須玉町

 戦国期に見える郷名。巨摩【こま】郡のうち。「高白斎記」の大永6年10月18日の条に,駒井政武(高白斎)の一族と推定される昌頼という人が駒井(韮崎【にらさき】市)から大蔵峰に出陣した旨が見える。永禄4年閏3月吉日の武田晴信禁制に,府中八幡宮の廻番の勤仕として「六十八番 大くらの禰き」とあり,当地の三島明神の禰宜が2日2晩,府中八幡宮に出向し,国内安穏を祈祷する行事に参加していたことがわかる(八幡神社文書/甲州古文書1)。武田信玄の時代の当地の領主は不明であるが,次の武田勝頼の時代の天正4年8月26日の武田家印判状写では,秋山惣九郎に与する足軽の1人に「大蔵之 孫兵衛」が見える(府中柳町又兵衛所蔵文書/同前)。武田氏滅亡の天正10年8月,相模の小田原北条氏が信濃・甲斐に侵攻し,同年9月20日の北条家印判状写では,信濃国佐久郡の人で武田勝頼の旧臣であった大井河内守の所領として200貫文を当郷内で,ほか計700貫文の地を充行っている(武州古文書)。しかし,徳川家康の甲斐入国で大井氏への知行充行は履行されなかったと思われる。なお,天正3年卯月朔日の穴山信君判物には「近年大蔵郷拘来候,壱貫仁百文之所下行畢」とあり,大蔵郷内1貫200文の地を穴山の根本被官と思われる佐野七郎兵衛に充行っている(佐野弘家文書/甲州古文書2)。戦国期穴山氏は現在の南巨摩郡を中心とする甲斐国南西部の河内領を支配領域としていたので,前記大蔵郷が当郷と同一地かどうかは未詳。ただし,穴山氏の本貫地は,もともと現韮崎市穴山であるといわれ,須玉町とも近い地域であるので,前記史料の大蔵郷も須玉町の大蔵で,穴山氏が自己の本領の一部として充行った可能性も皆無とはいえない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335327
最終更新日:2009-03-01




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