ケータイ辞書JLogosロゴ 於曽郷(中世)


山梨県>塩山市

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。山梨郡のうち。貞治3年2月15日の一蓮寺々領目録に「於曽郷内七段屋敷一宇三段上方惣領分四段屋敷一宇下方加々美彦九郎信泰女子香阿寄進 文和二年八月廿三日」とあり,一蓮寺(甲府市太田町)寺領が当郷にあったことが知られる(一蓮寺文書/甲州古文書1)。文安2年11月15日付武田信重寺領目録・同年11月27日付沙弥常光寺領覚書によれば,甲斐守護武田氏の親族板垣松渓法貞禅門から「山梨郡於曽郷〈年貢銭五貫文 当庵門前有之〉」が,塩山向嶽庵(塩山市上於曽)に寄進され,守護武田信重の安堵をうけている(向嶽寺文書/甲州古文書1)。この寺領は,永禄12年11月19日には武田信玄の安堵も得た同寺の重要な所領であった(同前)。このほか,同寺には明応7年3月25日に理英が「甲斐国山梨郡於曽郷田」年貢1貫文,天文16年7月に板垣信方が「於曽郷之内手作分壱貫弐百文所」を寄進している(同前)。信方は武田氏家臣で諏訪城代・両職の重職にあったが,子息信憲が天文21年に罪を被り,板垣氏は断絶した。のちに永禄初年,当地の於曽信安が板垣姓を与えられ同氏を再興している(国志)。信安は,元亀3年6月,「於曽郷之内壱貫仁百文処」を富士御室浅間神社に寄付して,武運長久・君臣和合・子孫繁栄を祈願した(富士御室浅間社文書/甲州古文書3)。「塩山向嶽禅菴小年代記」には,当地の事件として大永6年4月,「於曽千野竹森松之尾村上井尻数十郷」に氷塊が降ったことを載せている(影印甲斐戦国史料叢書1)。天正10年3月,武田氏が天目山で滅亡すると,甲斐は織田信長の支配下に入った。同年4月,信長は「甲州於曽郷」に乱妨狼藉の停止など,禁制を発布して,治安の回復に努めた(橋爪元太郎家文書/甲州古文書1)。しかし,同年6月,京都本能寺で信長が死没すると,甲斐国人は離反し,徳川家康が入部して小田原北条氏と甲斐国を争う状態となった。天正10年7月20日の家康印判状で小管又八に「かぬ川七十貫,小曽四百貫,都合四百七十貫文」を恩給して軍忠を要請しているのは,小田原北条氏との合戦を有利に導くためである(熊谷文書/徳川家康文書の研究上)。同年8月に甲斐一国を掌握した家康は,武田氏旧臣に対する本領安堵の政策を推進した。当地では8月23日に,「甲州於曽郷之内拾六貫六百文」が奥山織部に(奥山松代家文書/甲州古文書1),12月5日に「甲州小曽郷之内三貫文」が市川惣十郎に(放光寺文書/同前)安堵された。また,翌11年には,閏正月14日,「於曽郷棟別」が有賀式部助(種政)に免除(記録御用所本古文書/甲州古文書3),4月18日,「於曽内壱貫四百文」が熊野社(塩山市熊野)に(熊野神社文書/甲州古文書1),4月20日には「小曽田八貫二百文」が向嶽寺に(向嶽寺文書/同前),6月2日には「小曽之内吾妻分・矢崎分役銭共ニ八貫文,同所番匠分壱貫文」が田辺佐左衛門尉に(田辺佐苗家文書/同前),それぞれ安堵されている。ついで,天正12年12月5日,「甲州小曽郷之内拾三貫文」が本給として橋爪宮内助に安堵された(井尻源家文書/甲州古文書3)。同17年,家康は領国5か国の総検地を実施,甲斐国では伊奈忠次がその任に当たった。同年11月23日の寺領証文によれば,塩山向嶽寺領として「小曽郷・塩後両郷内」に103俵1斗6升,塩山東陽軒領として「小曽郷内」に28俵の知行が認められている(向嶽寺文書/甲州古文書1)。現在の塩山市上於曽・下於曽付近に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335444
最終更新日:2009-03-01




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