ケータイ辞書JLogosロゴ 柏前牧(古代)


山梨県>高根町

平安期に見える牧名巨麻【こま】郡のうちか甲斐の3御牧(勅旨牧)の1つ「延喜式」(左右馬寮式)に「凡年貢御馬者甲斐国六十疋真衣野・柏前両牧三十疋穂坂牧三十疋」と見え,毎年真衣野【まきの】牧と合わせて30疋の駒を貢上した駒牽の日は8月7日で,甲斐・武蔵・信濃・上野4国の御牧中最も早かった(西宮記・北山抄など)位置については東山梨郡勝沼町柏尾方面説と,北巨摩郡高根町念場原方面説とがある前者は地名の類似や黒駒山・駒飼駅など牧場に因縁のある地名が近くにあることなどを証拠とするが,この説を載せた「国志」も,必ずしも賛意を表していない後者は樫山(現在の高根町清里)をその遺称とするもので,念場原には野馬平【のむまだいら】・南牧ヨセ・北牧ヨセ・懸札などの地名が残り,この付近を牧場跡であると伝えている(国志)この牧と合わせて30疋の貢進を課せられた真衣野牧(武川【むかわ】村)との地理的位置を考えれば,後者が当たっていよう八ケ岳の山麓地帯に位置し,牧場が発達するにふさわしい土地である甲斐の御牧の駒牽は,「日本紀略」天長6年条に「冬十月丁未朔御武徳殿覧甲斐国御馬」とあるのが初見であるが,その起源は奈良末期か平安初期にさかのぼるであろうまた柏前牧の駒牽は「本朝世紀」天慶元年8月7日条に「是日甲斐国真衣野柏前両牧御馬廿疋牽進」とあるのが初見であるが,「樗嚢抄」がこれよりさき承平元年8月7日に甲斐の駒牽があったとするのは,この両牧のそれであろうこれ以前については史にもれたとみるほかはない貢馬の期日は当初比較的よく守られたが,平将門の乱の影響で天慶4年には真衣野・柏前が11月2日,穂坂が11月4日と大幅に遅延し,しかも前者は15疋,後者は20疋とともに定数を大きく割っていた(本朝世紀)これ以後は9月以降の駒牽の事例が多くなったたとえば正暦元年は10月20日(同前),寛弘6年は9月19日(権記)である駒数については記録が少ないが,天慶元年8月7日20疋,同4年15疋,同8年9月21日20疋(以上,本朝世紀),天暦3年8月27日22疋(日本紀略)など,員数を載せるものはすべて定数を欠いていたまた3御牧中,最も早く駒牽の記事からその名を消すのが柏前牧で,単独に真衣野牧の駒牽だけを掲げる記録が多くなってくる天徳4年を初見とし(西宮記・北山抄),以後常例となる「真衣野・柏前」と併記して駒牽の事実を記録するのは寛仁3年が最後ではあるまいか(小右記)なお「後二条師通記」永保3年8月4日条に「釈奠,甲斐勅旨御馬,柏原(ママ)・真衣野」と記すが,実際にこの日駒牽が行われたかどうかは疑わしい年中行事を記入したにすぎないかも知れないからであるそれにしても8月4日というのはおかしい誤記であろう「国志」が古歌に「小笠原へみの御牧」と歌われたへみ(逸見)の御牧を柏前牧のこととするのにはにわかに従い難いが,ともに八ケ岳山麓にあり,相隣接していたことから,柏前牧が逸見牧(荘)に併合せられた可能性はあろうこの牧が比較的早くその名を失った理由であるかもしれないなお駒牽が所定の日に行われない場合は,その日に馬寮は御馬逗留の解文を奏上する定めであったもちろん,後日現実に駒牽が行われることを前提としたもので,たとえば天慶8年には8月7日に真衣野・柏前両牧の御馬逗留の解文が奏上され,9月21日に実際にこの両牧の駒牽が行われている(本朝世紀)しかし駒牽の行事が停滞するようになると,御馬逗留の解文だけで,駒牽そのものは行われない場合も現れ,ついには駒牽が行われることを前提としないで,ただ逗留の解文だけを奏上することが儀式として残ったたとえば13世紀の成立である「師光年中行事」(続群10上)にも,「八月七日御馬逗留事甲斐勅旨牧……十七日御馬逗留事甲斐穂坂」と見える(古代官牧制の研究/郡司及び采女制度の研究)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335522
最終更新日:2009-03-01




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