上粟生野(近代)
明治後期・大正期〜現在の大字名。はじめ大藤村,昭和29年3月塩山町,同年4月からは塩山市の大字。もとは大藤村の一部。国鉄中央線の開通(明治36年)と,国道411号(旧青梅街道)の改修により交通面も発達し,大正期から昭和中期頃までの米麦の生産と養蚕を主とした農業経営は,昭和30年頃からモモ・スモモ・ブドウの果樹栽培に転換し,経営も近代化されている。地内の大藤小学校は昭和57年3階建てで新築された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335576
最終更新日:2009-03-01