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- 熊野堂(中世)とは
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![]() | 熊野堂(中世) 南北朝期に見える地名宇多荘のうち建武3年3月17日の相馬光胤軍忠状に「白川上野入道家人等,宇多庄熊野堂楯築間」と見え,宇多荘の地頭職をもつ南朝方の結城宗広の家人が熊野堂舘に籠っており,3月16日そこを相馬光胤らが攻めている(相馬文書/県史7)また同年5月9日の相馬光胤軍忠状に「今月六日,於宇多庄熊野堂致合戦」と見え,5月6日にも熊野堂で戦っている(同前)建武4年正月27日の氏家道誠軍勢催促状に「令発向東海道熊野堂,被致軍忠之条」と見え(同前),また同年正月日の相馬胤頼着到軍忠状に「建武四年正月廿六日,於東海道宇多庄熊野堂着到事」と見え,北朝方の相馬胤頼が当地に立籠っていた結城宗広代中村六郎を打ち破っている(同前)建武5年7月日の伊賀盛光軍忠状に「七月三日夜半凶徒等引率数多軍勢,当御城〈宇多庄熊野堂〉寄来之処」と見え,南朝方が相馬親胤・伊賀盛光らの籠る熊野堂城を攻めたが撃退されている(飯野文書/県史7)暦応2年3月日の相馬胤頼(松鶴丸)軍忠状に「一,建武三年三月十六日陸奥国東海道宇多庄熊野堂合戦事,……一,同年五月六日宇多庄熊野堂合戦事,……一,建武四年正月廿六日松鶴丸引率一族,押寄宇多庄熊野堂致合戦事」などと見え,相馬胤頼が養父光胤以下の当地での軍忠をのべている(相馬文書/県史7)浜通り北部,現在の相馬市のうちと推定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 熊野堂(中世) 戦国期に見える地名駿河【するが】国駿東【すんとう】郡のうち文禄元年2月11日の矢野種次手形(太泉寺文書/県史料1)に「熊野堂太泉寺領之事」と見え,当地の太泉寺が3石の寺領を認められている江戸期には東熊堂【ひがしくまんどう】村・西熊堂村に分村し,現在の沼津市大字東熊堂・西熊堂に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」