ケータイ辞書JLogosロゴ 蔵田(中世)


山梨県>甲府市

 戦国期に見える地名。山梨郡のうち。倉田とも書く。初見は永禄4年閏3月の武田信玄の府中八幡神社禰宜番役を定めたものの中に「くら田の禰き」と見えるもので,当村の白山権現の神官にも番役として府中八幡宮において祈祷を勤仕するよう命じたもの(八幡神社文書/甲州古文書1)。ついで永禄13年3月19日の若月五郎兵衛尉宛の武田家印判状写に「蔵田五貫」を重恩として充行うと見える(若槻憙計家文書/同前)。当地は府中の東南部にあたり,東青沼郷の西隣である。天正10年3月の武田氏滅亡後,徳川家康が入甲し,知行地の編成替えを断行する。まず天正10年6月12日の加賀美右衛門尉宛の本領安堵状に「五貫文 本領 蔵田之内」と見えており(古今消息集/甲州古文書3),ついで同年11月7日の同人宛の印判状でもやはり「蔵田内五貫文」が本給として充行われ(譜牒余録/同前),同年12月7日の武田氏旧臣の旧武川衆の一員米蔵六郎右衛門宛の印判状では「蔵田内拾貫文」が充行われている(旧武川衆所蔵文書/甲州古文書2)。さらに翌天正11年3月28日の加賀美右衛門尉宛印判状写では「蔵田内五貫文」が安堵されており(譜牒余録/甲州古文書3),また同日,飯田甚五右衛門尉には「蔵田内弐拾貫文」が安堵され(阿部宗仲家文書/甲州古文書2),同年5月6日の坂本武兵衛宛印判状写では「蔵田之内壱貫九百四十三文」が本領安堵されている(坂本忠敬家文書/同前)。慶長6年8月の徳川氏の総国検地では検地された形跡がなく,すでに文禄3年の浅野長政による甲府城築城に際して城下町に組み込まれた結果であろう。しかし慶長6年3月の大光寺領安堵状には「七百六十一坪蔵田之観音堂」と見えており,同じくこの前後と思われる鳥居成次書状にも「蔵田之大光寺」と見えているから(長禅寺文書/甲州古文書1),地名として存続していたことは確かである。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335866
最終更新日:2009-03-01




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