ケータイ辞書JLogosロゴ 黒野田宿(近世)


山梨県>大月市

 江戸期の甲州街道の宿場名。都留郡のうち。黒野田村地内に宿場を形成。「甲州道中宿村大概帳」によれば,宿高は121石余で,地子免許はなく,六尺給米・御蔵前入用は免除された。江戸への里程は28里余,近隣の宿場へは中初狩宿へ1里15町20間,鶴瀬宿へ2里半,阿弥陀海道宿へ12町,駒飼宿へ2里5町32間,宿往還は阿弥陀海道宿境から駒飼宿境まで長さ1里15町,宿内の町並みは東西4町,天保14年の宿内人別334(男170・女164),宿内家数79,本陣は宿の中ほどに1軒あり,建坪52坪,脇本陣も宿の中ほどに1軒あり,建坪50坪で,いずれも門構・玄関付き。同年の旅籠屋は14軒あり,その規模別内訳は大4軒・中6軒・小4軒。宿建人馬は25人・25疋,うち5人・5疋は囲人馬,人馬継立問屋場は宿の中ほどに1か所あり,問屋1人・年寄5人・馬指1人がおり,人馬継立は白野宿・阿弥陀海道宿と合同で行われ,当宿は毎月1〜15日の間を勤めた。正徳元年に定められた駄賃・人足賃は,中初狩宿まで荷物1駄71文・乗掛荷人共71文・軽尻馬1疋47文・人足1人35文,鶴瀬宿まで荷物1駄151文・乗掛荷人共151文・軽尻馬1疋101文・人足1人74文。なお,天保14年には,同15年から5年間はこの駄賃・人足賃の4割5分増しとすることが決められた。宿内の木賃銭は主人1人35文・召仕1人17文・馬1疋35文。高札場は字池の元に1か所あり,郷蔵はなかった。駒飼宿までの間には村はなく,また並木もなかったが,一里塚が1か所あり,立場が当宿地内笹子茶屋に1か所あった。宿の両側には家並みが続くが,ほかは耕地と野間で,耕地は畑のみであった。用水はなく,飲み水は川水を利用した。農業は五穀のほかにその時々の野菜を少々作り,農間に男は駄賃稼ぎ・山稼ぎなどを行い,女は糸をとって絹・紬を織る。旅籠屋のほかに食物を商う茶店があった。駒飼宿までの間には難所の笹子峠があり,当宿から駒飼宿へは登り1里15町・下り21町の山道を越えなければならなかった。なお,助郷村は,大幡・中津森・薄原・加畑・真木・小形山・川茂・古川渡・平栗の9か村が出役した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7335902
最終更新日:2009-03-01




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