ケータイ辞書JLogosロゴ 猿橋(中世)


山梨県>大月市

 戦国期に見える地名。都留【つる】郡のうち。申橋とも書く。文明19年,聖護院道興は小仏峠を越え,甲州に入り,岩殿明神に参詣した後,当地を訪れ,「名のみしてさけふもきかぬ猿橋のしたにこたふる山川の声」など3首を詠んでいる。当地の名は桂川の峡谷にかかる「猿橋」と呼ばれる橋に由来し,道興が訪れた当時,30余丈(約90m余り)の橋があり,道興はその由来を「此橋に種々の説有。昔猿のわたしけるなど,里人の申侍りき。さることあるにや信用しがたし。此橋の朽損の時は,いづれに国中の猿飼どもあつまりて勧進などして渡し侍るとなん。しかあらばその由緒も侍ることなり。所がら奇妙なる境地なり」と述べている(廻国雑記)。また,「妙法寺記」によれば,永正17年3月に都留郡守護の小山田越中守信有が猿橋において橋を立てかけているが,これは,道興の見た「猿橋」の架替えであろうか。当地は甲州の国境に近い軍事上の要地でもあり,武田氏はたびたび陣を置いている。同記によれば,大永4年に,武田信虎は1万8,000人の軍勢を率いて当地に布陣し,北条氏綱を討つため,奥三方(神奈川県津久井町)へ進入し,合戦を行っている。同じく享禄3年には,小山田越中守信有が甲斐の国人を率いて布陣しているが,これは,武田信虎が上杉朝興に味方して,小山田信有に北条氏綱の攻撃を命じたためである。また,同記によれば,天文2年には武田御所の焼失に続いて,猿橋・吉田・谷村などで火災があった。この年は河口湖の水がかれたとあり,雨が少なく乾燥した年であったようである。ところで,当地は永昌院(山梨市)の寺領が存したようで,年未詳の中秋(8月)20日付の永昌院領中条目の第1条目に猿橋の百姓が年貢の3分の1を未進しているとある(永昌院文書/甲州古文書1)。なお,円応寺(神奈川県鎌倉市)の永正11年8月吉日の年紀のある奪衣婆坐像内銘には「甲州申橋に加衛門」と見える(相州古文書4)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7336101
最終更新日:2009-03-01




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