ケータイ辞書JLogosロゴ 下山村(近世)


山梨県>身延町

 江戸期〜明治8年の村名。巨摩【こま】郡のうち。西河内領に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(上飯田・甲府・石和【いさわ】の各代官所を経て寛政6年以後市川代官所)。村高は,「慶長古高帳」614石余(ほかに南正院領25石・竜雲寺領10石・天輪寺領3石余・西林房領2石余),「宝暦村高帳」773石余,「天保郷帳」818石余,「旧高旧領」814石余(うち本国寺除地2石余・天輪寺領3石余・南松院領25石・竜雲寺領10石)。なお,「元禄郷帳」には粟倉村は当村の枝郷として見える。宝暦年間の反別は田35町余・畑92町余。「国志」によれば,枝郷に杉山・山額【やまびたい】・新町【あらまち】・大庭があり,文化初年の戸数384・人口1,662(男832・女830),馬60,駿州往還の伝馬宿で,切石村・八日市場村から15日代わりに逓送した。また,昔は本宿新宿といったとあり,新宿は新町のことという。同書によると寺院は臨済宗南松院・天輪寺,曹洞宗竜雲寺・長谷寺,日蓮宗本国寺などがある。神社は賀茂明神(一ノ宮と称す上賀茂と二ノ宮と称す下賀茂の2社)・飯綱明神(三ノ宮と称し,新町の鎮守)・住吉明神(界ノ宮と称し,荒町・山額の土神)・天満宮(大庭町の土神)などがある。当村は「甲州一のあばれ川」といわれる早川の渡船役を対岸の飯富村とともに勤め,身延山参詣客の便を図った。また当村は,6代将軍徳川家宣の芝の白銀御殿造営の棟梁石川五左衛門をはじめ,県内外の有名神社仏閣の造営を手がけた宮大工の町としても有名で,「下山大工」と呼ばれ,文政6年の大工数は308名を数えた。小字名に番匠小路・大工町などがある。日蓮の六老僧の1人日興上人が駿河へ移った際に,同行して「六坪の間」を造作したのに始まると伝える下山大工は,江戸期には役引大工とされたが,江戸期の甲斐国の役引大工14家のうち江戸期〜明治期まで現実に大工職を継続したのは当地の2家のみであった(身延町誌)。大工職をめぐってはいくつかの抗争が知られるが,最大のものは宝永元年から天明8年にいたる約80年間にわたって激しく繰り広げられた「三郡出入」である。ことの発端は,宝永元年将軍家宣による江戸の芝の白銀御殿造営の棟梁をめぐって下山大工石川久左衛門と石川五左衛門が争ったことまでさかのぼり,この争いは五左衛門が棟梁となることで終わったものの,以後両派の対立が続き,のちには巨摩・八代【やつしろ】・山梨3郡の大工の支配権をめぐる抗争にまで発展する。宝暦5年には当時140〜150名の下山大工のうち40名が,代々の役引大工職家竹下幸内・石川久左衛門一派の統制から脱しようとしたが,幸内・久左衛門側は82名の勢力を得て甲府勤番に訴えてその行動を封じた。その後も反幸内派は大石寺派の五左衛門とその弟与左衛門を中心に甲府代官所などへ訴え続けるが認められず,幸内派は下山大工のほか三郡棟梁権をも主張するに至り,五左衛門らは安永8年幕府評定所へ三郡棟梁権停止を訴え,天明元年下山大工147名の連印を得て老中に駕籠訴に及び,ようやく幸内・久左衛門の三郡棟梁権は否定された(同前)。また,宝暦年間から甲府城下の大工仕事をめぐって町方大工と在方大工の間に対立があり,文政6年には町方大工側が甲府城下で在方大工と他国の大工を統制・排除しようとしたため,下山大工308名を中核として河内大工1,514名がそれに対抗する職業出入りとなり,同7年当村の重左衛門と樋田村伴右衛門が巨摩・八代2郡909人の惣代となって幕府勘定奉行へ訴え,同9年在方大工の甲府城下での仕事を承認する和解が成立した(同前)。明治4年山梨県に所属。地租改正前の反別は田54町余・畑71町余など(市郡村誌)。同8年福居村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7336335
最終更新日:2009-03-01




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