ケータイ辞書JLogosロゴ 千野郷(中世)


山梨県>塩山市

 室町期〜戦国期に見える郷名。山梨郡のうち。文安2年6月晦日付吉田信益寄進状によれば,「甲斐国山梨郡千野郷内鹿子屋敷」の地が塩山向嶽庵に寄進されている(向嶽寺文書/甲州古文書1)。この寄進地は同年11月15日の寺領目録では「山梨郡千野郷ノ内鹿子屋敷〈年貢銭拾壱貫文〉吉田殿御寄進」とあり,武田氏惣領・甲斐国守護武田信重が寺領として安堵している(同前)。向嶽寺の開山は甲斐守護武田信成であるが,吉田信益は信成子息信春の庶子で吉田氏を称した三郎成春の嫡子であり,当郷に住み,近隣を統轄した向嶽寺の有力檀那であった。向嶽寺蔵の文安5年梵鐘銘には「大檀那源朝臣武田宮内大輔信益」と見える(山梨郷土史年表)。また,当郷には武田信成の墓所,恵林寺の塔頭継統院があったが,信成の子信春が14世紀末に館を築いて居住していた。信春は武田氏惣領として甲斐守護を継いだが,逸見氏と争い,応永20年10月23日,萩原入の柳沢で敗死(一蓮寺過去帳),その遺体を館に運んで一寺を建立したのが,柳沢山慈徳院(塩山市千野字八桑田)である。慈徳院は,天文17年11月吉日の武田晴信判物に「千野之慈徳庵新寄附,可為全寺務者也」とあり(向嶽寺文書/甲州古文書1),信玄から向嶽庵に寄進されている。永禄12年11月19日の武田晴信判物でも「千野之内鹿子屋敷八貫文」「千野之内慈徳院弐貫文」が寺領として安堵されている(同前)。なお,「塩山向嶽禅菴小年代記」大永6年条に,同年4月1日「於曽千野竹森松之尾村上井尻数十郷」に氷塊が降ったという記事がある(影印甲斐戦国史料叢書1)。「国志」には当地の武士として千野氏・古屋清左衛門・村田弥三をあげているが,「千野 村田弥三」に宛てて,軍役の代償として春秋の棟別役を免除する旨の,元亀2年4月19日付武田家印判状が伝存する(村田長嘉家文書/甲州古文書1)。天正10年3月,武田氏滅亡後,甲斐は一時織田信長の支配するところとなったが,同年6月,京都本能寺で信長が死没すると,徳川家康が入部,小田原北条氏の競合を排して甲斐一国の支配を掌握した。家康は武田氏旧臣の所領安堵を推進し,当地では,天正10年12月5日,古屋小兵衛(信直)が「甲州千野之内百貫文・同所棟別弐百免銭」などを本給として安堵されている(古屋嘉幸家文書/甲州古文書1)。同年4月20日には向嶽庵が「千野之内拾貫百五十文」を安堵された(向嶽寺文書/同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7336545
最終更新日:2009-03-01




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