ケータイ辞書JLogosロゴ 塚原(中世)


山梨県>甲府市

 南北朝期〜戦国期に見える地名。山梨郡のうち。建武4年6月13日の源持・平泰宗連署寄進状に「上野小七郎跡小岡郷内一分在之,同人跡塚原,以彼両所奉寄進者也」とあり,上野小七郎跡地の小岡郷内一分とともに,同人跡の当地も大善寺(現勝沼町)に寄進されている(大善寺文書/甲州古文書1)。また同年7月16日には同地を,鎌倉府執事斯波家長も改めて大善寺に寄進し,足利将軍家御祈祷が遅滞せぬよう命じている(同前)。下って「高白斎記」天文22年条によると,武田信玄は同年3月6日,当地や小松・和田など5か郷に対し人足役や公事免除の印判を下したことが知られる。また元亀2年3月14日には信玄は民部少輔の老母に堪忍分として「塚原之内」10貫文を安堵しているが,この地は天正元年12月23日にも,武田勝頼から同老母に安堵されている(西村文書/甲州古文書3)。天正5年閏7月15日には武田氏は,「松尾老母」が恵雲院(現甲府市)に寄進した「塚原之内」570銭の地のうち300銭分は田地・年貢ともに,残り270銭分の地については年貢得分権だけを同院に対して安堵している(恵雲院文書/甲州古文書1)。この松尾老母と先の民部少輔老母が同一人物である。天正10年,武田氏滅亡後に甲斐に入った徳川氏は天正10年12月3日,武田氏旧臣石原四郎右衛門尉昌明に「甲州塚原山共」で18貫文の地を充行っている(記録御用所本古文書/同前)。なお,天正20年2月11日の加藤光泰印判状には「塚原村恵運院」と見える(恵雲院文書/同前)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7336568
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ