ケータイ辞書JLogosロゴ 西一条町(近世)


山梨県>甲府市

江戸期〜明治9年の町名江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町甲府築城にともなう新城下町造営により成立町人地城下東南端の郭外に位置し,北は三ノ濠,西は緑町に接する町並みは東西に広がり,北側196間・南側203間(国志),1〜3丁目がある俗に櫂屋【かいや】町とも呼ばれ,一説に柳沢吉保の領有時代下府中の町々に残らず板屋根を命じたが,当町は町はずれのため除外された結果萱屋根が多かったことから,萱屋町と呼ばれ,のちにいい誤ったものという(裏見寒話)町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は35人戸口は,寛文10年346人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年67戸,うち1丁目24・2丁目43(上下府中間別/同前),享保5年421人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年482人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年66戸・357人,うち男178・女179(国志),天保7年65戸・447人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)享和3年の甲府の大火で70戸を全焼(町年寄御用日記),また嘉永7年の大火でも69戸を焼失している(甲府大火之記)明和2年以来教安寺境内で亀屋与兵衛が,芝居興行を営み,享和3年の大火後は自宅に芝居小屋亀屋座を設置,関東八座の1つに数えられ,その後興行は盛んであった天保12年4月6日甲府滞在中の安藤広重の日記にも「朝かひや町芝居へ行」くと見える江戸後期に穀仲買・煙草仲買各2人のほか小商人や職人がいたが,城下の場末に位置していたためあまり発展はなかった安政2年寺子屋墨地学舎を開設,明治元年調査によると生徒数男88・女72であったが翌2年廃止明治3年の戸数147,うち家持66・借家81(甲府町方家数人数取調書)同9年若松町の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7336878
最終更新日:2009-03-01




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