ケータイ辞書JLogosロゴ 波木井郷(中世)


山梨県>身延町

 鎌倉期〜南北朝期に見える郷名。巨摩【こま】郡飯野牧のうち。南部のうちともある。当郷には日蓮が隠棲した身延山があり,これがのちに久遠寺となる。地名の文書上の初見は文永12年と推定される2月16日の日蓮書状の「波木井の郷」であり(日蓮聖人遺文/鎌遺11815),その後は,日蓮の書状に散見する。日蓮は文永11年2月14日に佐渡の流刑を許され,同年3月26日に鎌倉に戻っている。その後,彼の熱烈な信者である南部実長の招きで,甲斐国波木井郷へ向かう。同年5月12日に鎌倉を出発した日蓮は同月17日に波木井郷に着き,実長と対面し,この地の山中身延山に隠棲する(日蓮聖人遺文/鎌遺14715)。南部実長は当郷一帯の地頭であり,波木井郷に居館があったため,波木井殿と呼ばれている。南部氏は新羅三郎義光の5代遠光の子光行を祖とし,現在の身延町・南部町一帯に所領を有していた。この一族は奥州にも所領をもち,岩手の南部氏は近世大名となる。日蓮は実長の援助を受け身延山の暮しを始めるが,富士川の下流の富士郡は日蓮のゆかりの地であり,多くの信者がおり,日蓮のきびしい生活をささえた。弘安3年正月27日の書状は当時の身延山の様子を見事に伝えている。「鎌倉を去て此山に入て七年也,此山の為体,日本国の中には七道あり,七道の内東海道十五箇国,其内に甲州飯野御牧三箇郷之内,波木井と申,此郷之内,戌亥の方に入て二十余里の深山あり,北は身延山,南は鷹取山,西は七面山,東は天子山也,板を四枚つい立たるか如し,此外を回て四の河あり,従北南へ富士河,自西東へ早河,此は後也,前に西より東へ波木井河中に一の滝あり,身延河と名付けたり,中天竺之鷲峰山を,此処に移せる歟,将又漢土の天台山の来る歟と覚ゆ,此四山四河之中に,手の広程の平かなる処あり,爰に庵室を結て天雨を脱れ,木の皮をはきて四壁とし,自死の鹿の皮を衣とし,春は蕨を折て身を養ひ,秋は果を拾て命を支へ候つる程に,去年十一月より雪降り積て,改年の正月今に絶る事なし」。日蓮はこの地の身延沢で修行と弟子養成で晩年を送り,弘安5年9月,病気治療のために常陸の温泉へ向かう途中,武蔵池上にて死去する。日蓮没後も,南部氏の保護の下に身延山は発展するが,建武元年には,開山以来の最大の危機に直面した。建武元年と推定される12月16日の日静(京都本国寺の中興)書状によれば,建武元年11月に尊良親王が足利尊氏との対立から鎌倉に配流されるに及んで,尊良親王の供奉衆であった南部実長の子息実継は同年12月13日に六条河原で斬首となり,その所領の「下山之南方」(身延山のある当郷)が闕所になったと伝えている(藻原寺文書/千葉県史料中世編諸家文書)。波木井南部氏は以後も,南朝につき,当郷は波木井南部氏の手を離れたと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7336954
最終更新日:2009-03-01




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