ケータイ辞書JLogosロゴ 平野村(近世)


山梨県>山中湖村

 江戸期〜明治8年の村名。都留郡のうち。郡内領に属す。はじめ谷村藩領,宝永元年からは幕府領(谷村・韮山・石和【いさわ】・市川の各代官所支配を経る)。村高は,「寛永村高帳」21石余,「享保郷帳」27石余,「天保郷帳」28石余,「旧高旧領」27石余。寛文9年の検地の時から長池村を分村した(国志)。ただし以上の郷帳類では長池村の村高は当村の村高のうちに含まれている。「元禄郷帳」では2か村の名を併記し,「国志」では当村24石余・長池村3石余とする。文化初年の戸数62・人口250(男132・女118),馬30(国志)。「享保郷帳」によれば,小物成に大豆・糠・蕎麦・薪があり,また笹板役2貫50文を納めた。この笹板役は,谷村藩時代には富士山入会地で伐り出した笹板を現物納していたが,幕府領となってからは金納になった。「国志」によれば,当地の「山水ノ風景」は「絶勝」で,村落は湖辺に連なり,漁家は湖上にあった。また,宝永の富士焼けで砂石に埋まったため山野はすべて焼砂となり,砂中に草を腐らして肥料とし,わずかに粟・稗・大豆・小豆・蘿蔔・芋などを作るのみであった。このため,男は山稼ぎや木挽・杣を業とし,他国へ稼ぎに出ることも多かったが,養蚕は行わなかったため女は農業以外に稼ぎがなかった。江戸中期頃からは鮒漁が行われた。元禄16年11月23日の大地震では山崩れが起きて民家はすべて押しつぶされ,即死者53名の被害を受けた。集落の南3町ほどの「づな峠」の登り口に口留番所があった。鎮守は天満宮で,除地は縦18間・横50間。ほかに北山中腹に石割権現がある。寺院は臨済宗海雲山寿徳寺があり,境内除地4反5畝。同寺はもと北部の山麓にあったが,元禄16年の大地震によって現在地に移転した(国志)。明治4年山梨県に所属。同5年長池村を合併(山中湖村史)。明治の土地改正による富士山入会地の土地国有化をめぐって上吉田村・下吉田村など11か村とともに闘争する。同8年中野村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7337087
最終更新日:2009-03-01




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