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「袋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

袋町(近世~近代)


江戸期~昭和37年の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町武田氏の時代に造営された城下町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた町人地甲府城の...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7337116]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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袋町(近世~近代)

江戸期~昭和41年の町名1~2丁目がある江戸期は宇和島藩の宇和島城下の町名城下の北に位置し,町方の中心西は城濠,東は本町,南は追手通,北は竪新【たつしん】町に接する町名は,袋小路の行きどまりになっていたことに由来する文禄4年藤堂高虎の入部前から町方として存在したと考えられ,その後江戸期を通じて町方の中心として繁栄した小字に河岸端【かしばた】・魚屋【うおや】横丁があり,町内に魚市場もあった河岸端は城濠に沿い,竪新町・横新町とともに当町は,城下町の港町としての機能を果たしていた元禄16年の城下絵図には袋町通と見え,安永5年の城下絵図には1丁目・2丁目と記され,本町側に29軒,堀端側に33軒の本家がある明治18~22年宇和島を冠称同22年宇和島町の大字,大正10年からは宇和島市の町名となる「宇和島の明治大正史」により明治年間の当町をみると,当地は主として魚屋の町で,魚市場は2丁目に2か所ある沿岸漁民は早朝和船を漕いで漁獲物を当地まで運んで来てセリ市にかける仲買いの魚屋は伏見屋・宇和伝・野中などで,崩し物に使用する以外は毎日30,40軒の得意回りをするとあるそれが大正期に次のように変わる「大正5年魚市場は丸之内の内港に移されて,この町には呉服屋と小間物雑貨店が盛んになる……宇和島の代表的名物エソの蒲鉾はこの町が本場である本家伏見屋・三間屋・伏見屋角店・名田屋・田中・かうじ屋などは最上の蒲鉾製造家として古い歴史を持っている」(宇和島大観)浜通りは明治33年旧城濠が埋め立てられるまでは,濠に面した片側町でその繁栄は第2次大戦後であり,昭和38年アーケードがつけられた戦後は宇和島随一の商店街として繁栄従来の本通りは裏通りの観を呈するに至った昭和4年の「うわじま」によると,法人営業の商工業2・個人営業の商工業者74,呉服・洋服・雑貨・料理屋などで,特に崩し蒲鉾の製造9戸が目立つ同20年の戦災では全域が焼失同37年の世帯137・人口625同41年中央町1~2丁目となる袋町の公称町名は消滅するが,袋町商店街に名残をとどめる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~昭和43年の町名明治前期は四日市を冠称することもあるもとは中南納屋町と称したが,天保14年の絵図には袋町と記され,明治3年に公式に袋町と改称した明治19年から昭和27年までは東袋町と西袋町とに分離した江戸期は四日市町の1町四日市町の東部に位置し,北は桶之町(南納屋町),南は大南納屋町と接する旧名の中南納屋町の名の由来は,四日市港の廻船問屋などの蔵や納屋がたち並ぶ南納屋町の中央に立地することにちなむ当地は海岸の州浜を干拓して造成された地で,延宝年間頃に次々と開拓された蔵町が納屋町と称していた元禄年間には当町はまだ1町をなすに至らなかったが,正徳年間頃からようやく町並みを形成し,中南納屋町と称するようになった文化7年の四日市町の改革では各町を7組に分けたが,当町は蔵町・北納屋町・中納屋町・南納屋町・大南納屋町とともに納屋町組に属す明治22年四日市町,同30年四日市市に所属明治22年の戸数157・人口837町の自治組織は納屋一致会に所属する同27年度袋町東組分町税戸別割は26.55円戸数・人口は,同43年245・1,466,大正2年東袋町111・686,西袋町138・679,同7年東袋町121・582,西袋町127・624世帯数・人口は,同12年東袋町121・582,西袋町121・610,昭和4年東袋町69・325,西袋町101・475商事会社が多く進出し,大正期に開けた納屋運河により一層商社の動きが活発となる毎年9月下旬の四日市祭には,東袋町・西袋町が共同で「をほこ鯨つき」として鯨舟山車を練り出す昭和11年までの四日市港の港湾整備で企業進出が相次ぎ,同時に運河の整備,道路の整備が進んだ同34年の世帯数106・人口471同38年国道1号のバイパスとして海岸寄りに名四国道が開通,袋町~名古屋市港区寛政町までの区間である同50年から国道23号となる昭和30年代中ごろから大気汚染が著しく人口が急減した昭和40年の世帯数43・人口180当町は土地公称四日市の一部で公称町名であったが,昭和38年住居表示実施により一部が蔵町・中納屋町となり,残余も同43年相生町・南納屋町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は広島城下中通組に属す広島城の南方,西塔川の東岸広島開発の時,伍家孫左衛門が部下を率いて楠木村より当地に移り住んだが,のち川田村に移転その後福島氏時代には禅林寺敷地および侍町となった(旧県史)明暦3年革屋町に出火した火事は中通組の町家233・侍屋敷25などを焼失大火ののち藩は中通組内の寺院を東寺町ほかへ移転するなど,街区の再編成を行った(広島市史)当地は北を町地として袋町を置き,南は侍町杉の木小路となった火災後作成された明暦4年の切絵図では小間数137間余,家数35うち木屋・左官各4,医師・木綿売・茶売各2,白銀屋・桶屋・大工・油売・料理人・革屋・麹屋各1など天和3年の切絵図では小間数137間,家数40うち左官・油屋各3,石屋・木屋・道具屋各2など「知新集」によれば石橋1・町門2,町間数2町23間余,家数45・竈数159(本竈44・借竈115)・人数538うち柿葺8・石工7・傘細工5・大工4・塗物細工3・指物師2,針医・筆結各1尾道から来住した石屋九兵衛はその後歴代藩の石細工御用を勤めた(知新集)元治元年の御領分諸色有物帖には塗物屋吉郎右衛門・扶持職人鎗師為助も載る真宗妙蓮寺はもと高田郡吉田にあったが,高宮郡深川村,城下西白島町を経て寛永年間当地に移転(知新集)明治5年杉の木小路を編入同7年就将舎が新川場町戒善寺に設立,翌8年の教員数5・生徒数605うち男311・女294(新修広島市史)同9年袋町に移転,校門前の水路名をとって桜川学校(現袋町小学校)と改称同38年袋町女子高等小学校設置明治期町内にはほかに漢学を学科とした私立必正舎,数理学会(のちの広陵中学)があった(同前)海外渡航株式会社は海外移民周旋を業とした(明治33年の広島繁昌記)明治11年広島区,同22年広島市の町名となる大正6年の戸数285・人口907,昭和26年の世帯数66・人口269同40年一部が大手町1~5丁目となり,西魚屋町・中町・鉄砲屋町・下中町・新川場町・堀川町・三川町の各一部を編入同55年中区の町名となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
織豊期~昭和38年の町名江戸期は長崎外町の1町船手に属した文禄2年畑地を開いて造成された町で,材木町・酒屋町・本紺屋町とともに外町でも最も古い町名は袋屋・足袋屋が多く居住していたことに由来するとみられる享和2年の長崎絵図によれば,長崎の中央部に立地し,町並みは東西に延び,東は橋を経て西古川町,西は同様にして引地町に隣接していた正保4年の長崎外町ケ所数之帳では箇所数5(柏原家文書),寛文3年の町の長さ213間・家持33(寛宝日記),同12年の町の長さ229間,実箇所数44,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数3,470坪余,箇所数46,竈数91,戸数112・人数283(男140・女143)乙名職は,寛永元年から糸屋家が勤め,五郎右衛門(初代),五郎右衛門(2代),太郎兵衛(3代),四右衛門(4代),忠左衛門(5代),五八郎(6代),随右衛門(7代),猪右衛門(8代),常三郎(9代)と続いた明治11年長崎区,同22年長崎市に属す大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には長崎実業商業学校・基督教会青年会館・東邦電力長崎支店電気部や材木屋・酒屋・医院・歯科医院・洋服屋などがあった昭和3年の戸数56,同10年の戸数54・人口335同38年栄町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~大正15年の町名江戸期は城下町伊勢崎の町人町伊勢崎城の北,紺屋町の西に南北の町並を形成町域は袋小路になっており,町名の由来となった「伊勢崎風土記」には町名が見えるが(県史料集2),寛永19年の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)では,いまだ町名としては表われていないなお「伊勢崎風土記」では,寛永年間以前の当町のあたりは,所在する曹洞宗同聚院にちなみ同聚院郭の名で呼ばれたとある「伊勢崎町新古日記」の宝暦13年屋並間数・軒数等書上(同前)によると,間数は紺屋町仲右衛門脇から文左衛門前まで40間,御堀端から城大門入口まで68間,町内六右衛門北から延命寺前木戸まで56間で合計164間,家数15なお天台宗延命寺はもと保泉村にあり,慶長年間に移転してきた明治18年の戸数33同44年の戸数69・人口359大正9年の世帯数103・人口435町名は明治22年から伊勢崎町の通称町名として存続大正15年泉町と改称...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は名古屋城下の1町町人町の1つ伝馬町筋の南側,御園町筋から久屋町筋に至る東西道路袋町筋の西端に位置する長島町筋から本町筋までの間の2丁にあたり,残りの袋町筋はそれぞれ縦町に属した慶長15年清須の本町小塚袋ノ内という所から移転した町で,町名は旧名を用いた本来地理的には伝馬町筋となるはずであったが,西の広井八幡宮(現泥江県神社)の山林が障害となり伝馬町筋が1丁北へ移されて当町域が定まった婦久呂町とも書く(金鱗九十九之塵)享保年間の家数22,町役銀304匁(名府予録)氏神は広井八幡宮(名古屋府城志)東照祭には警固の衆,御長刀持3人を出す(名古屋祭)明治4年頃八幡町を合併し,町域は木挽町筋から本町筋までとなる明治11年名古屋区,同22年名古屋市,同41年同市西区,昭和19年同市栄区,同20年からは同市中区に所属昭和41年錦1~3丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名江戸期は日光門前西町の1町町名の由来は,袋小路の町であったことによるといわれ,江戸初期には小袋町とも称した中世には当町から四軒町にかけての一帯が日光山の墓地であったと伝えられる当町を含む西町一帯は東照宮遷座後の寛永17年頃に整備され,町割が行われ,町並みが形成されたその後,日光目代の下僚,寛政年間以降は日光奉行配下の役人などが居住した貞享元年の日光大火による焼失家屋31(日光市史)享保8年の地図によれば,家数38慶応年間の「日光山森羅録」では,当町の町並みの長さは1町25間,家数34・人数150明治7年日光町の一部となり,同年日光町,同22年からは日光町日光の通称地名昭和19~22年四軒町と合併して田母沢町と称した昭和29年日光市の町名となる昭和44年本町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~昭和18年の町名・大字名江戸期は美濃国安八【あんぱち】郡,大垣城下町の1つ城下町東北部の士屋敷地域で本町の札の辻より北に位置する城下最小の侍町で,町名は大垣城郭内袋丸の出入口に当たり,袋小路の町であったことによる(新修大垣市史)宝暦3年の家数4軒明治6年からは大垣袋町と称し,同22年からは大垣町の大字,大正7年からは大垣市の町名となる同8年の地坪1,183坪明治11年本町から表側通【おもてがわどおり】への道路が町内を貫通して,水門【すいもん】川に永久橋が架橋(新修大垣市史)同33年の戸数9大正14年の地坪1,105坪昭和3年の戸数12・人口53同18年本町1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名・大字名江戸期は彦根の城下町の中の町名城下町南部の町屋地域で,芹川【せりかわ】(善利川)北岸の堤防下に位置する元禄8年の戸口(武士を除く)は460人・164軒で,うち米屋10,大工7,塩屋・煙草屋各6,小間物屋・綛屋各3,油屋・炭屋・麻屋・木挽各2であった(大洞弁財天祠堂金寄進帳)嘉永3年の戸数228,うち借家175(四手町組家持及借家数留書/彦根市立図書館蔵)明治4年,彦根藩から芸妓渡世の免許が下され花街となった明治22年,犬上郡彦根町の大字となり,昭和12年に彦根市袋町となる昭和44年,住居表示の実施により,現行の河原1~2丁目の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~昭和45年の町名江戸期は金沢城下町のうち,本町の1つ明治22年からは金沢市の町名城下の北部町名は当町の町末が行き止まり,袋のようであることによる(古蹟志)元禄期の家数4(金沢町奉行支配諸町家数)加賀藩の銀座役の金屋彦四郎の屋敷があった寛永21年常福寺が鍛冶町から移転,万治2年百々女木【どどめき】町へ移転「皇国地誌」には「県庁ノ北方,字武蔵カ辻ヨリ北ニ入リ東ニ折レテ博労町ニ連ルマテヲ云フ弐町壱拾間許,幅凡五間壱尺」と記す明治4年戸数53,大正5年の戸数123・人口444昭和40年,一部が安江町,同45年残余が尾張町2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

袋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名中町通丸太町上ル2丁目の町袋屋町とも称した(宝暦町鑑)「京雀」や寛文12年洛中洛外大図に当町名が見える当町は下御霊神社の菊鉾守護の町の1つ(桝屋町文書)江戸期は下中筋組枝町の上河原町十二町組明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】30番組,同5年第22区と改称,同25年第17学区に編成明治12年上京区袋町,同22年京都市上京区袋町となり現在に至る明治44年の世帯数28・人口122,工業従事者の比率の高い町であった(京都市臨時人口調査要計表)その後の世帯数・人口は大正14年32世帯・141人,昭和40年35世帯・107人...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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