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北条(中世) 鎌倉期~戦国期に見える条名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北条(中世) 鎌倉期から見える地名伊豆国田方郡のうち「吾妻鏡」治承4年4月27日条に「伊豆国北条館」とあり,当地に住していた源頼朝に以仁王令旨が伝えられたことが見える源頼朝が平氏打倒の兵を挙げたのが当地であり,北条時政の本拠地でもあった同書文治5年6月6日条によると,奥州征伐を祈祷して北条時政が北条内に願成就院を建立しているまた,同書建仁元年10月6日条によると,「北条」に下着した北条泰時は,当地の農民に去年貸し付けた米50石の返上期になっていたが本年も風損で不作のため返還を免除し,証文を農民の面前で焼き捨て酒食まで与えている鎌倉期当地が特殊な扱いを受けていた一端を物語っており,北条氏一族の来訪もしきりに見られるなお,北条時政の死亡記事を記した「吾妻鏡」建保3年正月8日条には北条郡と見えるが,当地を郡と呼んだ史料は他に見られないので,北条郡の存否については検討の余地があるなお,「元亨釈書」には平安期天台座主となった延暦寺陽生(正暦4年没)は「豆州北条人」と見える南北朝期になると,暦応2年4月5日付の足利直義寄進状案に「同国(伊豆)北条五箇郷原木・山木・肥田・中条・南中村」とあり,円成寺に寄進する旨伝えている(北条寺文書/県史料1)「太平記」巻3の観応2年12月27日条によると,薩埵山の敗戦後,足利直義が「北条ヘ落行給ヒケル」が,ここにも留り得ず伊豆山へ退いたと伝えている室町期になると,長禄元年12月足利政知が鎌倉公方として下向した際伊豆国まで来たが関東に入部できず,北条の堀越に屋形をたて伊豆を知行したという(鎌倉大草紙)これを堀越御所といっている戦国期の永禄12年7月2日の武田信玄判物によると,武田勢が三島に攻め入り,さらに当地において北条氏規兄弟の軍を打ち破り勝利を収めている(信濃寺社文書/大日料10-2)当地の比定地は,上北条・中北条・下北条の小字名が残る現在の韮山町大字四日町および願成就院のある大字寺家付近と考えられる北条五箇郷は,南は韮山町大字中から北は函南【かんなみ】町大字肥田にかけての一帯に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北条(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北条(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北条(中世) 鎌倉期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北条(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」