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万歳(中世)


 戦国期に見える地名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7337244]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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万歳(中世)

鎌倉期から見える地名葛下【かつげ】郡のうち①万歳里片岡放光寺(現王寺町王寺)の正安4年縁起に「一当時鎮守神社三所 南御殿長尾五所 葛下郡惣社ノ振別……長尾者葛下郡万歳里辺辰巳方ニ奉崇,内外両社即伊勢大神宮御垂跡也」とある(大和志料下)また永仁2年3月日付東大寺大仏灯油料田注文(東大寺文書/鎌遺18517)には「一段〈万歳〉本地子一石 作虎法師」と,当地に大仏灯油料田1段があった下って,室町期頃の金峰山免田田数注文(天理図書館所蔵文書)にも「(廿四条)六里 七坪一反〈小法師万歳,半又太郎岡崎〉……十八坪三反半内〈……一反金剛マンサイ……〉」と,当地の住人が見えているこの条里坪付は現在の大和高田市市場にあたる天正8年織田信長に提出した大乗院家御知行分帳(広大大乗院文書)によれば「万歳領」は1町1段とあるなお文明年間には尺度荘作人に「万歳ノサヰモク屋」がおり(文明6年給人伊与守吉久検注帳/三箇院家抄1),また明応年間には「万歳弥九郎」という者が鍋の販売権をめぐって下田・三輪の鍋座と相論したり,万歳住人が長谷寺で菅笠を販売したりしており,当地に手工業者のいたことが知られる(寺社雑事記明応5年正月4日・6年3月21日条)②万歳郷国人万歳氏の勢力範囲の総称大和高田市市場を中心に,当麻町東部から大和高田市北西部にかけての地域にあたる郷域内に平田荘田を含む応永6年正月13日付興福寺供養料足段銭収納注文(春日大社文書2)に「広田庄……五百四十七貫八百三十四文 万歳方上〈名々支配〉四百五十貫四百文 万歳方上〈名田ニ不支配沙汰分,此内百貫文唐院直納〉」とある一乗院門跡領平田荘名田方田地帳(春日大社文書4)には「万歳領中 百一町八段卅六歩 万歳殿……以上 万歳方」として計290余町,「万歳領 六町二反 護念院……以上万歳領出田分」として計58町余が記されているその内訳には野口・西細井・北井・西田井・岡崎らの地侍,金勝寺・五位堂寺・玄(良)福寺・最福寺・鎌田堂・野口堂・当麻寺・高雄寺など在地寺院が含まれる戦国期には郷内で猿楽が興行され,一向衆道場「万歳郷マミ山ノ導場」が置かれていた(春日社司祐維記永正15年5月23日条/大日料9-8,多聞院日記永禄12年7月18日条)この道場は広陵町赤部の長福寺のことはやく天永3年12月3日付某処分状(東大寺文書/平遺1785・1786)に「字万歳殿所領田畠」計14町6段180歩の坪付が見えるそれによれば,この所領は葛下郡21条1里,22条1里,23条4・5・7・9里,24条4・6・7里にわたる計20か坪,現在の大和高田市北西部に分布し,とりわけ24条6里25坪の「長原居坪」は後代の万歳氏居館にあたっている国民万歳氏は大和国衙の在庁官人の出身で,一乗院門跡坊人一族に万歳南・万歳北・万歳西地侍岡崎氏らは被官平田荘荘官として在地に勢力を扶植,応永14年5月日付平田荘荘官請文(春日大社文書2)に万歳則益が見えるほか,平田荘八荘官の1人であったまた同27年の一乗院坊人用銭注文(天理図書館所蔵文書)に「万歳西〈万歳知行歟〉平田庄専当職之内御給分弐町四反,料免六町」とあるまた坊人として当麻【たいま】荘小三郎半名を給与された至徳元年の長川流鏑馬日記に「万歳」と見え,春日若宮祭に流鏑馬頭役を勤める願主人の一員平田党に属す応永21年足利義持に召喚されて有力国民として上洛(寺門事条々聞書/内閣大乗院文書)永享の乱中には平田荘に賦課された寺門段銭を滞納したため,興福寺の発向をうけるところであった(満済准后日記永享3年8月4・11日条)文安4年には興福寺の東大寺発向に動員され,手掻門に布陣した(経覚私要鈔文安4年9月14日条)河内守護畠山義就・政長の抗争が激化すると,万歳氏は国民越智家栄とともに義就方となった(寺社雑事記文正元年10月5日条)応仁・文明の乱以降,大和国衆は義就与党の越智・古市派,政長与党の筒井・十市派の両陣に分かれて,対立・抗争を続けたが,この時も万歳氏は越智方であった文明3年には筒井方の布施氏が陣小屋に使う竹木を求めて万歳在所に入ったため,古市氏が万歳に援軍を出しているこの頃万歳付近は大和の義就党の拠点で,文明7年5月には再び布施氏と合戦,「万歳散郷」が焼き払われたついで同年6月にも筒井方は万歳城を攻めたが大敗,筒井順尊(舜覚房)は河内に退き,以後大和の戦況は越智方有利に推移した(同前文明3年8月28日・7年5月23日・6月8・9日条)文明11年筒井は反攻を企てたが,山辺郡福住に退却を余儀なくされた同15年山辺郡の布留郷民が一揆して興福寺に抵抗した際には,万歳は丹波市に陣して一揆勢と対峙している(同前文明11年10月4・5日・15年10月8日条)この間平田荘年貢をしばしば未進し,長享2年万歳氏惣領が死去した折には「平田庄官年貢無沙汰仁也」と評され,また近隣の平田荘官岡氏と用水相論を繰り返し,古市氏らの後ろ盾を得て合戦に及ぶなど,勢力を振るった(同前文明9年4月15日・長享2年7月15日・延徳2年8月5日など)明応6年10月河内の畠山尚順の勢力挽回とともに筒井順盛が越智らを破ると,万歳は自館を焼いて逃亡,翌11月には畠山尚順が河内から当地に入っている万歳所領は没収され,その3分の1は国衆布施氏に,残余は尚順の馬廻衆に宛行われた(明応六年記/続群2下,寺社雑事記明応6年11月23日・7年2月20日条)この後越智・筒井の和議がなり,万歳氏もまた帰住した永正2年古市を除く大和国衆は盟約を結び,万歳右京進則定がその代表たる国判衆12氏に加わっている(明応六年記/続群2下,多聞院日記永正3年3月15日条)同3・4年赤沢朝経,ついでその子長経の大和侵入によって大和国衆は四散したが,この時万歳城は抵抗の拠点となったらしい(同前永正4年11月14日条)同15年には将軍足利義稙の命をうけた河内遊佐氏以下の軍勢のため,万歳郷が焼失したという(春日社司祐維記永正15年6月5日条/大日料9-8)永禄年間松永久秀が大和を制圧,万歳は当初松永方に与したが,のちに反松永の筒井方に転じ,松永軍の再三の攻撃にも拘らず城を保った永禄11年12月には万歳郷が焼かれているその後は筒井順慶麾下として織田信長に仕え,天正10年には甲斐武田氏攻略にも参陣している(細川両家記/群書20,多聞院日記永禄11年10月10日・12月10日条,蓮成院記録天正10年3月条)名物茶器「万歳大海」を所持したことも有名(山上宗二記)「大和記」によれば,大和国侍八人衆の1人,当主は万歳当次郎,知行4,500石という居館万歳平城は現在の大和高田市市場の集落北部,春日神社境内付近城下集落に市場を開設したため今日の地名が残ったという平城の詰城として築かれた万歳山城址は当麻町当麻,当麻寺西方の万歳山にある(日本城郭大系10)春日神社石灯籠の大永5年12月21日付銘文に「奉寄進 葛下郡平田庄 万歳北井弁盛」,長楽寺(大和高田市市場)の天正元年6月7日付位牌に「万歳治部少輔友興」とある

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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