ケータイ辞書JLogosロゴ 矢戸(中世)


山梨県>大泉村

 戦国期に見える地名。巨摩【こま】郡のうち。永禄4年閏3月吉日の武田晴信禁制(八幡神社文書/甲州古文書1)に「六十一番 矢との禰き」と見え,府中八幡の廻番の勤仕として当地の諏訪明神の禰宜が2日2晩,府中八幡に出向して国内安穏を祈祷していたことがわかる。天正10年3月の武田家滅亡後,同年6月より徳川勢が甲斐に入国したが,天正10年9月9日の徳川家印判状写によると,津金衆の一員津金修理亮胤久は「矢戸分八貫文」など,計263貫文の新知行を徳川氏から充行われている(旧津金衆所蔵文書/甲州古文書2)。「譜牒余録」に記された前記印判状の由来によると,この加増は天正10年8月の北条氏直の甲斐侵入の際,津金衆の小尾・津金氏らが徳川勢の先鋒として江草(現須玉町)の根古屋を攻め落とすなどの活躍をしたためである。また天正11年4月19日の徳川家康印判状写によれば,「甲州苗敷領,甘利上条内五貫文,矢戸内弐百文」と見え,当地の苗敷山宝生寺の寺領として当地200文ほか合計5貫200文を安堵している(宝生寺文書/甲州古文書2)。宝生寺は永禄9年7月18日には武田家印判状写を受けており,「一間之分棟別銭并御譜請役」が免除されていた(同前)。なお,津金衆とは常陸佐竹氏の一族で,武田信昌の頃に甲斐に入国して津金郷(現須玉町)を領したといわれる津金氏を旗頭とする武士団であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7337407
最終更新日:2009-03-01




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