前方一致 全文(カスタム検索)
Guest Guest
  1. JLogos検索辞書>
  2. 柳町(近世~近代)とは

「柳町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

柳町(近世~近代)


江戸期~昭和39年の町名江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町甲府築城にともなう城下町造営により成立町人地城下の東南に位置する三ノ濠で囲まれた郭内にあり,...

全文を表示する


[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7337419]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

◆関連辞書(JLogos内)


  1. amazon商品リンク
柳町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山【ひやま】郡)能代湊【のしろみなと】のうち秋田藩領町立ては貞享年中(聞見録)沼が多く柳の密生地と想定され,町名の由来をなすか能代五町組制では当初より後【うしろ】町組戸数は「享保郡邑記」で130軒元禄7年地震では町立て直後でもあり,被害数記事未見宝永元年地震では,新町・鍛冶【かじ】町とともに全壊・半壊は出たが,出火なく残る享保7年絵図で東は畑谷【はたや】町へ接続,途中南へ出戸【でと】小路に通じ,また赤館町通りと結ぶその接点付近(柳町東部)には元屋敷,周辺に畠とある南に住吉社,その前面に門前町と大光院,北に稲荷明神がある西光寺脇道は柳町と直角に交差し,その延長は袋小路享保13年絵図で柳町両側すべて町屋となる前記出戸小路は「ホシハミチ」の文字住吉社には「八幡住吉社地」の文字,スケッチがあり,社殿の他に境内に小家屋5,6軒東西長さ66間境内前に「別当大光院屋敷」の文字柳町北に町屋が連続立地し,稲荷社地・光明院明神社地間に境界道が新しく見える寛保3年大火で八幡住吉・稲荷などが残り,赤館町・伊藤杢右衛門屋敷(柳町北近接)が焼け残ったことから柳町に類焼なしと推定される翌延享元年柳町後兵助屋敷裏地通りに小路ができるまた左五兵衛・半左衛門間の小路改修宝暦4年住吉3社残らず類焼,御神旗など焼失明和3年下川反【しもかわばた】町より出火,八幡神社の拝殿・本殿類焼寛延3年の町役出銭156貫文余,表間口総丈数は217丈余除屋敷は小走源兵衛屋敷分借家・長屋数8軒礼銭として柳町旅人(他国商人か駐在者)らが35人が1人につき50文ずつ納入(能代惣町本図帳)寛延3年柳町年長は佐藤兵助元禄年中,清助町・新町の傾城が柳町へ移り揚屋急増,他町内は自然禁止文化11年柳町諸商売として遊女宿・下駄足駄類(能代奉行支配覚)安政2年「東講商人鑑」には柳町商家の記載がないただし絵図に「柳町遊女町なり」の記事また勝長清右衛門・古屋八郎兵衛・鶴屋某の旅籠がある鎮守は山王社・八幡社,宝永3年より住吉社が八幡社地に建立されてより,能代は3社を鎮守とする明治22年からは能代港町,昭和15年からは能代市の町名となる昭和41年住居表示実施により,赤館町,字住吉後,住吉町の各一部を編入,現町域確定

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~現在の町名東中筋通花屋町下ルの町南北に通る東中筋通をはさむ両側町寛永14年洛中絵図には「二丁目」,「京雀」には「天子のつきぬけ二町目」,寛文12年洛中洛外大図には「天使突抜二丁目」,天明6年洛中洛外大図では「東中筋二丁目」の名が見え,西本願寺寺内のうち東中筋通(天使突抜通)の2丁目に位置していた「寺内歳時記」(村上文治家文書)や「宝暦町鑑」には「柳町」と記す「坊目誌」によると寛保年間に改称したといわれ,その由来については近傍に花屋・紅葉・若松などの町名があり,それにならったものかとする江戸期,当町には西本願寺境内町役所があったここでは寺内町の民政全般が取り扱われたが,刑罰の執行は京都町奉行所が行った(御境内律令/村上文治家文書)「寺内歳時記」によれば,延享2年以後は正月4日の寺内町代年頭御礼も当所で行われたという「宝暦町鑑」には当町に真法寺・正住寺・光永寺があったといい,明治14年の「府地誌」では同様に正住寺・一念寺・真徳寺・法輪寺の存在を記す正住寺は元和2年3月僧養悦の開基一念寺は享保9年僧円亮の開基真徳寺は元和3年3月僧明誓の開基法輪寺は元禄6年10月5日僧戒雲の開基真法寺・光永寺については不明また教宗寺が明治29年4月に本願寺門前町より移転してきたが,翌年長崎へ移転した(坊目誌)いずれも浄土真宗本願寺派「表処置録」(村上文治家文書)によれば,院家として正住寺,余間として光永寺,飛檐として真徳寺,堂達として法輪寺,三十日番として一念寺がそれぞれあげられている江戸期は西本願寺寺内町の学林組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】19番組,同5年第23区と改称,同25年第23学区に編成明治12年下京区柳町,同22年京都市下京区柳町となり現在に至る現在,当町から西洞院町にかけてある植柳小学校は明治2年9月に山川町において開校し,同7年9月に町役所跡地の現在地に移転また同29年4月には大矢医院という病院が開設されている(京都市統計書)世帯数・人口は,明治44年33世帯・153人,大正14年24世帯・145人,昭和40年37世帯・127人人口増減率(昭和40~50年)50.4%減...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は沼田城下町の1町沼田城の東北,薄根川左岸の台地上に位置する当町のあたりは,永正16年沼田上野介泰輝が北方崖際に幕岩城を構築し,沼田台地開発の端緒をなした場所にあたる城下町の1町としては真田氏時代の万治3年に割り立てられ,はじめ谷町と称した谷町の名の由来は地内に凹地(産寧坂)がある所からと伝えられる天和2年の沼田町図(矢島家文書)には「柳町」と見えるなお,同図には天台宗三光院・真言宗常福院・真言宗常楽院・天台宗慈眼寺・禅宗瑞麟寺の5か寺が描かれている三光院はもと熊野坊と称したが,沼田氏とともに3度法域を移し,沼田氏を称したことにより三光院と称するようになった(住職世代相続記/沼田町史)沼田町の古刹としては最古の歴史を有し,寺宝の十一面観音像は,文永11年快覚作の胎内墨書銘があり,応永13年小窪(国分)の合戦で沼田景朝が小窪の村上出羽守より奪取し,のちに三光院に安置したものである(上毛沼田記/同前)町域の東部は天和年間頃までには農民が居住し,侍屋敷は西部一帯に形成され,その北を上堤,南を下堤と称し,2つの通りに面していた天和元年真田氏改易後,侍屋敷は破却されて畑地となったため,一帯を新畑と称するようになった主家没落後土着した武士に,御鑓奉行で250石取の籾山内蔵助などがいるまた先の天和2年沼田町図によれば,その頃地内東部に瓦師藤五郎の居宅と瓦焼き小屋があった文政11年柳町・高橋場町宗門人別帳(吉沢家文書)によれば両町合わせて農家60,人数217,総石高114石余,60軒のうち1石以上が37軒,その所持高は,最高が19石5斗,最低が2斗となっている明治19年から2年間,中島源兵衛の居宅を借りて高等小学校の仮校舎が設置され,当時,中島氏の通称中屋から中屋学校と呼んだまた同32年柳町有志が旧幕岩城跡において競馬を開催している明治22年沼田町,昭和29年からは沼田市の通称町名として存続し,同60年正式町名となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は博多の1町御笠川下流左岸に位置する石堂(御笠)川に沿い,竪町浜の東に位置する遊郭地(三奈木黒田家所蔵福博古図)かつて博多の遊女屋は洲崎浜に散在していたというが,慶長年間に藩が当地に集住させた当町は流には属さず,津中に礼銀を指し出したまた町年寄は寛保3年諸公役が免除され,町役人は年行司によって人選された(続風土記・博多津要録)元禄年間の家数90・間数70間余,遊女60~70(続風土記),宝暦年間の遊女83人(石城志)遊女の小女郎・明月・染衣は柳町三娼伝として有名で,小女郎は近松門左衛門の浄瑠璃「博多小女郎波枕」の主人公となった遊女に対する藩の取締りは厳しく,寛文6年外出禁止令が出された(博多津要録)明治期になり面役が免除となった明治4年の町格は上の上で,定切銭は7貫文余(石城遺聞)明治12年の戸数34・人数183,民業は商17戸・雑業10戸(福岡区地誌)明治11年福岡区,同22年からは福岡市に所属明治22年の戸数27・人口600(福岡市誌)江戸期から拡張は一切認められなかったが,明治期になって郭の拡張運動の結果,石堂川べりを埋立て北に拡張された明治28年火災にあい16戸が焼失したにもかかわらず発展を続け全国屈指の遊郭となったしかし同44年,医科大学(現九州大学医学部)新設により環境浄化が叫ばれたことから住吉村に移転跡地には大浜小学校が建設された新しい遊郭は新柳町といわれ,跡地を旧柳町と呼んだ大正期から昭和期にかけては,小学校のまわりに材木店・タクシー営業所などがあった昭和20年の博多空襲はまぬがれた同41年石城町・大博町・下呉服町となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は奈良町の1町南方触口支配に属する江戸期には奈良町の南西部に位置し,北は寺町,南は南魚屋町と接し,町境に率川が流れていた(現在は暗渠)町名の由来は,「奈良坊目拙解」によると,数本の柳が路傍にあったことにちなむというまた同書によれば,慶長年間にはいまだ人家がなかったという寛永8年の役家数21,元禄2年の家数22,竈数48うち大家20・借家28,享保14年の役家数21.5,家数26.5,竈数36.5うち大家18.5・借家18(奈良市史通史3)貞享4年の「奈良曝」には,「西口,かたはら町,此町と三ツ合シテ町役廿一軒」と記し,鞘塗師の勘介,刀屋の吉兵衛,とぎ屋の木屋五兵衛の名が見えるまた,宝永年間町代高木又兵衛諸事控では,京刀屋の吉兵衛,質屋のもすや市右衛門,それに米屋2軒が知られる(県立図書館藤田文庫)薪能や春日若宮祭に出演する能役者,若宮祭に参勤する大名の役人衆の宿泊所を提供する宿割町にもなっていた(奈良町雑録)西側に浄土宗知恩院派で南都十三か寺の1つ来迎寺があり,寺の前の南北通りを来迎寺前ともいう本堂は寛永13年,表門は慶安元年の建立表門の南に地蔵堂があり,観音堂は南都三十三か所札所の1つに数えられる(奈良坊目拙解・奈良市史社寺編)郡山方面から奈良町への入口であったので高札場が設けられ,西城戸町・寺町・当町が管理していた「南都年中行事」によると,薬師堂町の御霊社の氏子区域明治22年奈良町,同31年からは奈良市に所属世帯数・人口は,昭和45年27・111,同55年26・64...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~昭和55年の町名江戸期は名古屋城下町続きの1町押切村のうち大代官所支配名古屋城の北西,江川右岸に位置する「寛文覚書」によれば,押切村の枝郷に柳町が見える享保13年一部事務が町奉行の管轄地となった城下町続きに「押切村……南北柳町籠申候」とある(吏事随筆)元文3年名古屋図では,北柳町と南柳町に分けて記載されている江川の西,田町筋から西へ延びる町並みで,横町3筋からなる(尾張志)「徇行記」によれば,「柳町ハ此村(押切村)北ノ方ヘ付,志水氏下邸ノウラ通リニアリ,侍居宅小借家入交リノ所ナリ」という地内に曹洞宗周泉寺がある往古は無縁寺と号し,中島郡片原一色村にあったが,当地に移転し,改号したという(金鱗九十九之塵)田町筋との間が柳町新地(のちの江川横町)として発達する南は花ノ木町に接する(尾府全図)明治11年押切村が柳町・押切町・平野町・南押切村・北押切村に分離し,当町は名古屋区に編入,同22年名古屋市,同41年からは同市西区に所属町域は,江川横町の西,金城村大字北押切町字北柳の南,同字南柳の北,同字切藪の東にあたる(名古屋市史)昭和10年北押切町の一部を編入同55年花の木1~3丁目・浄心1~2丁目となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治初年~22年は亀岡を冠称江戸期は亀山城下16町の1つ亀山城築城に際し,郭内に組み込まれたもと下矢田村地内に下矢田村の住民が移住させられて成立町名は西願寺の近辺に楊柳の樹が多くあったことにちなむという(西願寺略縁起)旅籠町の西にあたり,東西141間の町並み西は紺屋町,中ほどを南北に魚屋町の町並みが抜ける「桑下漫録」では家数57矢田社の祭礼に使用する山鉾の1つ,高砂山がある今も残る同山は文政8年に改修されたものという(亀岡市史)寺院に,浄土宗西願寺がある同寺の本尊は和泉式部の守本尊であったと伝える丈3尺余の木彫准胝観世音菩薩同観音はもと東別院小泉の清泉寺にあったが,同地を高槻城主高山右近が知行したとき,領内の寺院を壊したので,同寺の檀徒は壺に同観音を納めて地中に埋めたという伝えを有す(西願寺略縁起)なお同寺は現在は廃寺となっている明治4年亀岡県を経て京都府桑田郡,同12年南桑田郡に所属同21年の戸数49(市町村合併史)同22年亀岡町の大字となる昭和30年から亀岡市柳町となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は金沢城下町のうち,地子町の1つ明治22年からは金沢市の町名市街地の北西部町名は,伊予西条城主一柳監物が加賀藩御預けになった際の屋敷近くであったことにちなんで柳の字をとったという説と,一柳監物屋敷回りに柳が植えられたことによるという説がある(稿本金沢市史)主に町人居住地すでに貞享元年の町会所留記に町名がみえる(古蹟志)天明5年には肝煎岡屋茂兵衛支配下文化8年には専光寺前の組合頭安右衛門預り組となっており,家数は武家奉公人・藩小者20軒,商人11軒,日稼ぎ18軒など63軒を数えた(町方絵図・名帳)嘉永年間の侍帳によると篠原文次郎(1,000石)が居住していたことが知られる明治5年南続きの北六枚町を合併し,戸数は82「皇国地誌」には「英町六枚町ノ際ヨリ北ニ入リ,中間曲折シテ北広岡村領ニ接ス三町弐拾間許,幅広キハ四間,狭キハ壱間三尺又属巷東ニ通ス」と記す大正5年の戸数176・人口734昭和40年一部が本町2丁目,昭和町となる同45年の世帯数・人口は0...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名・大字名滋賀郡のうち江戸期は俗にいう大津100か町の1つで,幕府領町名は大津築城の際坂本城下柳町から移住した者によって町づくりが行われたことに由来する中町通りの中央にあり東は太間【だいま】町,西は丸屋町江戸期には大橋堀が町の北側まで入り込み,18の石段をもった舟入りがあった(元禄8年町絵図)魚問屋・乾物商・荷問屋が多かった町有文書を保存している大津祭の曳山は寛文2年(あるいは万治元年作)の殺生石山で天井の百花草は松村景文の筆文政元年の幕府御用金には4名で1,250両負担している慶応元年大津宿役を負担した役家は26軒自治組織は中堀町組明治期以後は大津駅から琵琶【びわ】湖岸に向かう道路の拡張で町をけずられた明治5年滋賀県に所属同22年滋賀郡大津町成立に伴い大津町大字柳町,同31年大津市柳町となり,昭和40年中央1~2丁目の各一部となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名久保田柳町・秋田柳町ともいった江戸期は出羽国秋田郡のうち秋田藩領久保田城下町の1つ久保田の外町【とまち】で,北は田中町,南は八日町で,小路を西へ突き当たれば寺町である町割は慶長17年以降といわれる(秋田名蹟考)寛文3年の間数33.5間・家数52戸樋屋長左衛門を襲名する樋屋があったので,俗称樋屋町とも呼ばれた(伊頭園茶話)また鉄砲屋小路ともいわれるが町名の由来は不明(秋田名蹟考)正徳4年に大火に遭い,天保13年の外町大火によりほとんど焼失した(奥のしをり)明治4年から秋田町の町名同11年南秋田郡に所属同22年秋田市の町名となる明治元年の下米【しもこめ】町大火により下米町の遊女が当町へ移動同7年柳巷学校創立同18年の戸数83(秋田町字分戸数調),翌年俵屋火事により全焼昭和40年住居表示実施により大町4丁目の一部となる...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

柳町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は姫路城下の1町町人地明治初年~明治22年は姫路を冠称姫路城の西,船場川の西方で,同川に並行する南北の町筋昔,ここに柳の大木があって,その下に清水が湧き,柳の清水と呼ばれ,万治年間に初めて民家ができて柳町を称するようになったと伝える(市制三十年姫路市史)また,当町は慶長町割の時に成立したともいう(姫路市町名字考)姫路城廻絵図(姫路市史)には町人地として見えるが,鷹匠町などとともに侍屋敷が配されたという(姫路城史)江戸期の地子銀は90匁余(姫路市史)元和5年藩主本多忠政が材木町にあった歳徳社を当町に遷した(村翁夜話集)明治22年姫路市に所属...

全文を表示する

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西暦2024年(平成36年)
426曜日
新着時事用語
リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
┗自筆の遺言書を法務局で保管してくれる制度のこと。2018年に

アポ電詐欺・強盗
┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
┗ 部屋の片付けや老前整理・生前整理・遺品整理等で、業者が家庭

所有者不明土地
┗ 永年相続登記(不動産の名義変更)が行われずに、登記簿上で所

遺言控除
┗ 有効な遺言書による相続となった場合、相続税の基礎控除額に上

今日を知る

今日の記念日

『世界知的所有権の日(WorldIntellectualPropertyDay)、リメンバー・チェルノブイリ・デー』

1986(昭和61)年、ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で、大爆発事故が発生しました。周辺の地域に大量の放射能が撒き散らされ、史上最悪の原発事故となりました。

今日の暦

月齢:17

月齢:17
月名(旧歴日):立待月(たちまちづき)

・2024年(年/竜)
・4月(卯月/April)
・26日
・金
・Friday
・友引

二十四節気:「穀雨<
・a>」から<
・font>7日「
立夏<
・a>」まで<
・font>9日


JLogos Now!!