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湯村(近世)


 江戸期~明治8年の村名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7337485]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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湯村(近世)

江戸期~明治7年の村名因幡【いなば】国高草郡のうち吉岡村とも称した(因幡志)湖山池の南岸から約1.5km南の吉岡谷に位置する戦国期の知将吉岡将監の居城であった箕上山麓に広がる温泉場で,平安期頃に葦岡【よしおか】長者によって発見されたといい,塩類性の閑静な温泉場として栄えた鳥取藩領村高は,拝領高562石余,「元禄郷村帳」625石余,「天保郷帳」555石余(うち新田高65石余),「元治郷村帳」554石余,「旧高旧領」562石余元禄の本免は5.1,「元治郷村帳」の物成は258石余戸数は,「因幡志」127,「文久3年組合帳」118「因幡志」によれば,隣村へは東の三山口【みやまぐち】村へ14町,西の御熊村へ22町余,さらに西の志加奴【しかの】村へ2里,産物には木地屋細工物・下駄・薪・白柿・つつみ柿・箕などがあり,氏神は新宮大明神同社の祭日は9月23日,その摂社に妙見・稲荷,別社として荒神3社があり,寺は曹洞宗中峰山宝泉寺,同寺は平安期葦岡長者の開山と伝えられるほかに安楽院,修験の薬師堂,御茶屋があり,御制札場が置かれたまた,当村は温泉場としてにぎわい,藩主もよく来遊した湯池の数も多く,藩主の湯場を一の湯と称し,二の湯とともに,一般には禁湯とされ,亀井氏が入湯した亀井殿湯(入込湯),一般客が入った荒湯・中の湯・瘡湯・馬湯などがあった旅籠は2匁,木賃は1匁2分,入込湯油代は1夜1人につき1文と決められていたほか,宝暦10年の御制札により,湯賃は1人につき5分,宿賃は7分と定められた慶安4年・万治2年の在方御法度には吉岡村,正徳・享保期の在方御定には湯村と記され,それぞれ宿場として見える(県史4)享保3年には,湯賃・宿賃を制札の通り,今吹銀で同4年正月朔日からとることとなった(県史9)享保9年御茶屋の修理は藩の普請方で行い,湯小屋は村方の負担で改修を行った(県史9)文政4年当村内の湯端地区を残らず内湯とした(県史10)安政7年御鷹野に指定される(県史12)また,牛市も立ち,安政3年には宿送継場に指定された(藩史5)明治4年鳥取県に所属同6年吉岡小学校を開設,同7年の生徒数55(男46・女9)教員数3(県史近代5)同7年吉岡村と改称

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

湯村(近世)
江戸期~明治7年の村名因幡【いなば】国気多【けた】郡のうち湯村宿ともいう浜村川下流の西岸に位置する地名の由来は温泉地であることによる鳥取藩領村高は,拝領高277石余,「元禄郷村帳」277石余,「天保郷帳」308石余(うち新田高31石余),「元治郷村帳」310石余,「旧高旧領」315石余元禄の本免は5.3,「元治郷村帳」の物成は139石余戸数は,「因幡志」60,「文久3年組合帳」62近世の「勝見温泉由来記」や「勝見由来」によると,温泉の発見は室町後期といわれる温泉の湯壺は一の湯・二の湯・三の湯・入込湯・鷺湯などがあり,藩はこの地に藩主の休憩所である御茶屋を設けていた一の湯は藩の御茶屋と結ばれた藩主専用のもので,享保4年御茶屋・湯壺とも修復された(県史9)藩主が一の湯に入湯のときには,二の湯は上級家臣,三の湯・入込湯は御徒士,鷺湯には下級家臣が入湯し,藩主が入湯しないときは,一の湯・二の湯は「諸士以下町医者出家ノ者」,三の湯は「身ヲ持タル町人百姓」,入込湯・鷺湯は男女の別なく入湯した(勝見温泉由来記)藩主とその一族の入湯は寛永18年から文政10年までの間に44回余を数えることができ,1回の滞在期間は約20日間が多い(勝見入湯記)湯壺は,このほかに豆腐屋の湯,花屋の湯,沢屋の湯,山内の湯,新湯など民間のものがあったまた,伯耆【ほうき】街道の宿駅でもあり,享保・正徳年間に新設された近世初頭から湯治場としてにぎわいをみせていたので,次第に宿・駅の機能も果たすようになり,享保・正徳年間に正式に宿駅の指定をうけたものであろう(県史4)制札場も置かれていた(藩史5)氏神は勝宿大明神,寺は曹洞宗安寧山長泉寺があり,護伝寺の末寺,ほかに薬師如来を本尊とする薬師堂があり,長泉寺持ちの灯明米は2斗4升(因幡志)明治4年鳥取県に所属同6年勝見小学校が開設,同7年の生徒数58(男43・女15),教員数2,授業料月1円57銭5厘(県史近代5)同年勝見村と改称...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

湯村(近世)
江戸期~明治7年の村名伯耆【ほうき】国河村郡のうち三徳【みとく】川下流域の谷底平野左岸に位置する地名の由来は地内に温泉が湧出することにちなむ鳥取藩領村高は,拝領高220石余,「元禄郷村帳」220石余,「天保郷帳」220石余,「元治郷村帳」243石余,「旧高旧領」261石余元禄の本免は5.6,「元治郷村帳」の物成は120石余戸数は,「元文2年村分帳」35,「文久3年組合帳」53宝暦年間の状況は河村郡村々諸事控(近藤家文書)によれば,悪田加損3石,川役銀16匁,棟5軒役高100人役,人数192(禅門2・医者1・山伏2を含む),氏神は大久保大明神,湯数23坪(うち1坪は御茶屋湯,同1坪は中湯)がありこの運上銀6匁,また外ケ谷という枝村があった「伯耆民談記」によれば,湯壺数は18~19で,一の湯・二の湯・入込みの3つが並び,一の湯は御茶屋と称して藩主が修築したというまた,湯壺1周の湯代銀1両,湯数が多いため入浴は自由で,春秋には他国からも客が訪れ繁盛したと伝えられる衣川長秋は「美徳山紀行」(文政4年)の中で「三朝の里にいたりぬ倉吉よりここまで一里半なり此の里に温泉【いでゆ】30ばかりありてまれなるいで湯なれど,山ふかくおくまりたる所なれば湯あみに来る人もまれなり」と記している氏神大久保大明神は株湯発見の大久保左馬之祐に深い縁故があり,明治初年湯村神社と改称文政12年・嘉永3年の大洪水で家屋等流出慶応元年医者梧谷文哉が寺子屋を開業,明治4年の寺子数男13・女1また安政元年医者石田謙蔵が寺子屋開業,明治3年の寺子数男15(藩史3)明治4年鳥取県に所属同7年三朝【みささ】村と改称...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

湯村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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湯村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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湯村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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湯村(近世)
江戸期~明治8年の村名古くは海潮【うしお】郷に属す出雲国大原郡のうち江戸期を通じて松江藩領当村には海潮温泉があり,江戸期には松江藩主の来遊があった(雲陽誌)検地は寛文11年で,村高は「大数録」に120石余,「天保郷帳」に151石余とある神社は国常立命ほかを祭神とする湯神社がある宝暦6年に火災があり海潮温泉が全焼した明治4年島根県に所属同7年の戸数60・人口247(海潮村誌)同8年中屋村・飛石【とびいし】村と合併して大原郡中湯石【なかゆいし】村となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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