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- 八日町(近世~近代)とは
「八日町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 八日町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町甲府築城にともなう新城下町造営により成立町人地城下の東南に位置し,三ノ濠で囲まれた郭内にある...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7337495]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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八日町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は三戸城下八町の1町三戸城下の南に位置し,北は二日町,東は在府小路町,西は同心町に接する町並みは盛岡道に沿って東西に伸び,長さ3町23間で,西から順に3丁に分かれる一丁目の中程から南東に伸びる小路は馬喰町と称し,町並みの長さは1町18間(国誌)「邦内郷村志」では梅内村のうち三戸市中として八日町が見え,家数88,安政3年「三戸通神社仏閣地名書上帳」では家数125・人数449,明治初年の家数194(同前)地内には居酒屋・旅籠屋・雑貨屋など商工業の店舗が立ち並び,二日町とともに8の日に市が立った(同前)町役人は八日町検断・宿老が置かれた「雑書」の慶安2年4月28日条によれば,当町商人が紫根の取引を行っている当町裏には浄土宗観福寺・同宗悟慎寺・日蓮宗妙光寺・真宗玉岑寺があった(同前)明治元年盛岡藩が廃藩となって支城としての三戸城下の機能も失われ,城下八町はそれぞれ独立した町として扱われるようになるただし,その際三戸を冠称して三戸八日町と呼ばれることがあり,また旧城下全体を三戸町・三戸村と総称することもあった明治22年三戸町に所属商店街を形成八日町遺跡が町の中央部の宅地にあり,縄文晩期の土偶(県立郷土館蔵,県重宝),注口土器など多数出土昭和58年の世帯数91・人口372 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八日町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名久保田八日町・秋田八日町ともいった江戸期は出羽国秋田郡のうち秋田藩領久保田城下町の1つ成立は慶長17年以降とある(秋田名蹟考)久保田の外町【とまち】で柳町の南,豊島【としま】町と寺町の間にある塩座があり久保田町の塩の俵売りと小売りを許されていた宝暦期に下肴【しもさかな】町の橋の普請を命ぜられ,その資金調達を新屋【あらや】村の塩行商人(新屋村は塩の触れ売りが許可された)から30文ずつ1か月徴収するよう訴願している明和元年には同町と粗製の製塩地である新屋村と塩の専売権をめぐる争いが起こっている(羽後民政史料)寛文3年の間数47・家数72間数に対し家数が多いのは小住宅が多かったことを意味する(外町屋敷間数絵図)成立時不詳の稲荷神社があり,その付近に明治中期私立三省学校(俗称篠田学校)があった明治4年から秋田町の町名同11年南秋田郡に所属同22年秋田市の町名となる明治18年の戸教116(秋田町字分戸数調)昭和40年住居表示実施により大町5丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八日町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は盛岡城下の一町町人地城北地区に属し,北上川左岸の東に位置する町名の由来は,昔は毎月8日が市日であったことによる(盛岡砂子)盛岡藩が幕府に届け出た盛岡二十三町の1つ天明8年の家数56・人数381(邦内郷村志)四ツ家町の東で濠に沿い,町の規模は2町(盛岡砂子)明治8年の戸数142(盛岡市史)明治4年仁王村の字名,同22年盛岡市仁王の字名,昭和20年からは盛岡市の町名となる同26年の世帯数167・人口809(男407・女402)同39年本町通2丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」