吉田村(近世)
江戸期〜明治8年の村名。巨摩郡のうち。西郡筋に属す。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(甲府・上飯田・市川の各代官所を経る)。村高は,「慶長古高帳」551石余(ほかに大明神領3石余),寛文4年検地795石余(うち枝郷の十五所村207石余・沢登村287石余),「宝暦村高帳」824石余,「天保郷帳」829石余,「旧高旧領」834石余(うち諏訪明神領3石余)。寛文4年検地での反別は畑88町余・屋敷2町余(うち十五所村は畑21町余・屋敷1町余,沢登村は畑32町余・屋敷1町余)。枝郷に沢登村・十五所村があり,水害により村が四散したためこの枝郷が生まれたという。この枝郷2村はすでに慶長6年と寛文4年の検地帳でも分冊形式で独自の水帳を保持し,村役人も独自に配置されて実質上は独立の機能を有していたが,本村から名実ともに独立するため年貢割付を枝郷にも別に与えることを要求して数回にわたる出入りがあり,元文3年に至り「免定」を3本に分けることで落着した。これによって枝郷2か村は分村したと考えられ,「国志」は当村とは別に十五所村・沢登村についてそれぞれ独自に扱う。ただし,前掲の諸郷帳では枝郷2か村の村高を当村の村高のうちに含めて記す。村の規模は東西20町・南北11町ほど。集落は東小路・西小路に分かれ,またそれぞれ東吉田・西吉田とも称する。さらに東吉田は北村・中村・下村・東村・西村,西吉田は中組・西組・東組・下組に分かれる。元文5年の村明細帳によれば家数113(うち各主1・長百姓5・百姓82・水呑25)・人数493,文化初年の戸数133・人口492(男244・女248),馬2(国志)。名主役は長百姓が交代で勤務。西小路が村役人を独占していたことに東小路が反発し,幕末に至って東小路が村役人を確保した一件もあった。用水は渇水時に御勅使川より2里余の道のりで引くほか,溜池が2か所にある。入会地は中尾山中の峯口を利用。水田は皆無で,畑作は木綿・煙草・大豆・粟・牛蒡・大根などを栽培。耕地に恵まれないため,農間稼ぎとして古来より大根・人参・牛蒡・夏豆・葱苗・醂柿・塩の野売りが認められていた。商人が28人いた時もあるのはこのため。元治元年大火により47軒焼失。神社は朱印高3石余の諏訪大明神,寺院は曹洞宗延命山宝泉院・吉田山雲耕院・陽泉山竜光院などがあり,宝泉院には木造地蔵菩薩坐像が安置される。明治4年山梨県に所属。同年の戸数123・人口706。同6年十五所・沢登・上今井の3か村とともに吉田学校を地内に設立。同8年豊村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7337517
最終更新日:2009-03-01