ケータイ辞書JLogosロゴ 赤須村(近世)


長野県>駒ケ根市

 江戸期〜明治8年の村名。伊那郡のうち。はじめ飯田藩領,寛文12年から幕府領。なお地内市場割・南下平は,天和2年から元禄12年まで坂木【さかき】藩領であった。村高は,「天正高帳」では赤須領として1,589石余,「正保書上」1,559(ママ)石余,「元禄郷帳」2,851石余,「天保郷帳」3,340石余,「旧高旧領」3,377石余。新田開発は江戸初期と安永4・9年をピークとし,前者は天竜川沖積地の下平,後者は河岸段丘上の畑地開発が,それぞれ主な対象となった。当村は,慶安2年と推定される赤須伝馬町の分立をはじめとして,以後,事実上の分村が相次ぎ,江戸中期までに上赤須・小町屋・市場割・北下平・南下平・赤須町の赤須6か村に分立,行政機能はそれぞれに属した。山に遠く採草が不便なため,江戸初期以来深刻な山論が繰り返された。一方下平は水害が深刻で,川除普請にあわせて,元禄年間以降は川除林を育成してこれに対処した。伊那街道の宿駅機能は,当初赤須村として負っていたが(赤須町文書),慶安2年以降は赤須伝馬町に移された。伝馬役免許高252石余を受けたが,元禄13年取上げられ,本役25軒であった。寺院に天台宗長春寺・浄土宗如来寺がある。明治2年伊那県,同4年筑摩県に所属。明治8年の戸数538・人数2,835(駒ケ根市誌)。同年赤穂村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7337645
最終更新日:2009-03-01




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