ケータイ辞書JLogosロゴ 伊久間村(近世)


長野県>喬木村

 江戸期〜明治8年の村名。伊那郡のうち。はじめ飯田藩領,天和元年から美濃高須藩領。村高は,「天正高帳」489石余,「正保知行付」426石余,「元禄郷帳」574石余,「天保郷帳」575石余,「旧高旧領」も同高。宗門改帳による戸数・人口は,寛文3年32・304,天和2年69・349,元禄9年95・541,宝永2年35・394,享保4年35・377(喬木村誌)。神社は村社諏訪社,寺は曹洞宗法運寺,ほかに三宝院修験道の清珠院がある。米・麦・養蚕が産業の主体であったが,湿地帯が多かったため昔から藺草を産し,慶長年間には藺草を原料とした伊久間茣蓙を上納している。また後年,湿田で芹を栽培し,伊久間芹として知られた。地紙の紙漉も営まれていた。度重なる天竜川の大洪水に見舞われ,特に文化4年の洪水による決壊は著しく,高須藩主からの国役御普請願いにより,足かけ3年がかりで伊久間の普請が完成。なお元文3年の氾濫では,新しい川筋ができる騒ぎになり,川瀬が変わったことから島田村と虎岩村・知久平村・伊久間村の間で川境争論が起き,中州にある祭神弁天の争奪論に発展したが,結果的には当村など竜東方の敗北となった(同前)。明治4年名古屋県を経て筑摩県に所属。同7年法運寺に琢器学校を開設。同8年喬木【たかぎ】村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7337853
最終更新日:2009-03-01




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