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- 石坂村(近世)とは
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石坂村(近世) 江戸期~明治12年の村名「いしさかむら」ともいう加賀国石川郡五か荘に属す加賀藩領犀川【さいがわ】左岸,犀川大橋の西方付近に立地寛文10年村御印の村高71石,免5ツ4歩家高2軒・百姓数3人(加州三郡高免付御給人帳)早くから当村域は相対請地化し,元禄9年には村域に成立した石坂町の名がみえ,享保12年2月には「石坂村家続町家,願之通り新家建之」という記事も見える(金沢市史・市街編第2)村高のうち55石余は,のち前田万之助らの屋敷地となり,残りの15石余は石坂町東力屋五右衛門と八日市屋某の所有地となり,両人が相対卸の地子銀を徴収曹洞宗竜昌寺の寺地もそこに含まれていたという藩政後期のこのころすでに,当村は無家となっていた文政4年の相対請地整理のとき,針屋町・石坂川岸町が当村地で町立てし,明治12年の整理のときは,本馬町・北石坂新町・石坂川岸町・助九郎町・石坂角場七番丁・上小柳町・下小柳町・石坂町へそれぞれ編入このときわずかに残った村地もすべて金沢町に編入し,村名は消滅(金沢市史・市街編第2・皇国地誌) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石坂村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石坂村(近世) 江戸期の村名魚沼郡のうち芦ケ崎村5か村の1つ中津川中流左岸の川沿い地名の由来は,芦ケ崎本村のうち相吉段丘面から下る坂道に岩石が多いためという元和2年長峰藩領,同5年福島正則領,同8年幕府領,寛永元年高田藩領,天和元年からは幕府領村高は,「正保国絵図」3石余,「天和高帳」「元禄郷帳」ともに9石余元禄7年改村鑑によれば,家数4(本家2・水呑2)・人数21,馬4中津川に張り出した狭い舌状台地にあり,中津川原へ新田を開くが洪水のたびに流亡を繰り返した文政3年に新田高請をした5町余の水田は,2年後の洪水で3町5反が流亡した芦ケ崎村全体を統括する庄屋が芦ケ崎村に置かれ,当村には庄屋が置かれなかった江戸中期に芦ケ崎村の一部となったと思われるが(天保郷帳),その後も独立して扱われることがあった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石坂村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
石坂村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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