ケータイ辞書JLogosロゴ 上原郷(中世)


長野県>茅野市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。諏訪郡のうち。嘉禎3年の奥書を有する「祝詞段」に「上原ノ郷ニ千カト若宮久須井十三所上下御社宮神」とあり,当地には千鹿頭神社・若宮八幡社・諏訪社上社十三所の一つである久須井社などがあったことが知られる(諏叢8)。宝治3年3月日の諏訪信重解状写に「御立増大県上原」と見え,当地が諏訪社上社の3月祭事に関与している(諏訪大社並社家文書/信叢15)。諏訪社上社大祝為貞の孫敦成が上原五郎を称して当地を支配したと伝え,「大祝職位事書」所収の建武2年2月9日の年紀を有する祭礼次第によると「上原神主 白米三升 二百文」とあり,上原氏が諏訪社上社大祝の職位神事の費用を分担している(信叢7)。室町期に成立したと推定される「年内神事次第旧記」では犬射馬場における犬追物の規式のほか「一,上原ニおとゝや一間」「一,村代神主の御むろへまいらするせちれうの事……上原神主 白米一斗,すかたゝみ三条……上原かかう二人して白米六升」などと散見する(同前7)。諏訪氏が当地に館を築いた年代は明らかでないが,「守矢満実書留」文正元年2月14日条によれば「上原精進屋始……御頭上原諏方安芸(守脱カ)信満勤仕候」と見え(同前7),この頃から当地が諏訪惣領家の居館となっていたものと推定される。なお,「神使御頭之日記」によれば享禄3年と天文13年に当地は頭役を勤仕した(同前14)。「守矢頼実書留」によれば,武田晴信が天文11年7月に諏訪に攻め入った時,諏訪頼重は「十日町」に陣取っており,この時「上原まち」の堀回りがことごとく放火されたという(同前7)。当地には諏訪惣領家の居館上原城を中核として城下町が形成されていたものと推定される。これ以後当地は武田氏の支配下に入り,同年8月吉日武田晴信は「〈上原之内〉合五反町破 常仙坊」を,諏訪社上社に寄進している(如法院文書/信史11)。また同24年2月14日にも武田晴信は「上原之内右京左衛門尉分弐貫文之所」を八剣神社に寄進している(八剣神社文書/同前12)。これより前の「高白斎記」天文12年5月25日条によれば「上原ノ城ノ鍬立」とあり,諏訪在城を命じられた板垣信方が当地の城普請を行っている(信史11)。永禄8年12月5日の諏訪社上社神事再興次第によれば,当地には「二之神子免」として1貫200文の田畠があったが,宿屋敷となるにつれて退転したという(諏訪大社文書/信史12)。また翌9年閏8月25日の武田信玄朱印状に「九頭井社瑞籬・鳥居,以諏方郡上原南北之田役,七箇年ニ一度造立之由」とあり,当郷はこの頃には南北に分かれていたことが知られる(矢島文書/同前13)。また天正6年の上諏訪造宮清書帳にも同様の記載が見られる(信叢2)。「御頭役請執帳」によれば,永禄12年「上原之郷」が頭役を勤仕(信史13),「神使御頭足之書」では天正9年の頭役として「内県介 上原郷」と定められた(信叢14)。同4年11月26日武田勝頼は「上原古屋敷分之内三十五貫文被下置之由」を林源十郎に宛行った(林文書/信史14)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7338124
最終更新日:2009-03-01




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