ケータイ辞書JLogosロゴ 臼田郷(中世)


長野県>臼田町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。佐久郡伴野荘のうち。鎌倉末期から南北朝期には臼田原郷とも見える。嘉暦4年3月日の鎌倉幕府下知状案に,11番五月会分として「佐久郡伴野庄……臼田郷丹波前司跡」とあり(守矢文書/信史5),同年の諏訪大宮造営目録には「同(玉垣)一間半 臼田」と見える(信叢2)。元弘3年11月10日の後醍醐天皇綸旨によれば「信濃国伴野庄内臼田原事,為当庄内之上者,管領不可有相違者」とあり,伴野荘の地頭職を有する大徳寺に対して,当地も含めて安堵している(大徳寺文書/信史5),しかし翌建武元年4月11日の後醍醐天皇綸旨によれば「伴野庄内臼田原郷」の地を,同年2月7日に誤って玉井為直らに宛行ったため,為直らには替地を与え,再度同地は大徳寺に安堵されることとなった。翌年10月21日の伴野荘年貢注文案によれば「臼田原〈佃無よし申〉 百八十貫文,〈白云二百卅貫〉上臼田村〈佃一丁一反,此外九反六十歩地頭手作〉三百貫文〈三貫,佃〉 下臼田村〈佃無よし申之〉 二百八十貫文」とあり,当郷は臼田原・上臼田村・下臼田村の地から成っていたものと考えられる(同前)。下って戦国期の天文9年には,当地にあった臼田城が武田信虎の佐久郡進攻に伴って落城したという(塩山向岳禅菴小年代記/信史11)。また「高白斎記」によれば,同17年9月11日には諏訪から佐久郡に進攻した武田晴信が当地に至り,同日前山城(現佐久市前山)を攻め落したことにより郡内13か城も降伏したという(信史11)。永禄元年9月には佐久郡諏訪社の社殿が建立され,同年月の年紀を有する木造棟札に「信州佐久郡伴野内(庄か)臼田□□(村か)五郎」とある(同前12)。同11年信玄は佐久・小県【ちいさがた】両郡の修験普請役を免除するが,同年8月4日の武田信玄免許状に「〈臼田之〉常楽坊」とある(大井文書/信史13)。天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳では「臼田之郷」が瑞籬2間分の役銭4貫500文を,翌年の同取帳では同じく役銭5貫文を負担している(信叢2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7338153
最終更新日:2009-03-01




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