ケータイ辞書JLogosロゴ 上穂(中世)


長野県>駒ケ根市

 鎌倉期から見える地名。伊那郡のうち。戦国期には上穂郷とも見える。嘉暦4年の諏訪大宮造営目録に「伊那郡 玉垣五間 大島〈上穂・横厩〉」とあり,造宮役を負担していた(信史5)。下って天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳に「一,瑞垣五間……上穂郷 取手右之衆(千野源丞・金子新五衛門尉)合壱貫四百文 代官北村大炊助・下平藤七郎」,翌7年の同取帳には「一,瑞雛五間……上穂之郷 〈右之新五右衛門尉・右之源丞〉 正物壱貫五百三十文 代官下平伝左衛門尉・小林若狭守」とあり,戦国期に至っても造宮役を負担している(信叢2)。この間,永禄年間には上穂郷および赤須郷と南山との間で境相論が起きており,永禄3年4月26日片桐為成と飯島為定が仲裁している(福沢文書/信史12)。当地を本貫とする上穂氏については,応永7年の大塔合戦を記した「大塔物語」に「上穂伊豆守」が(信叢2),永享12年の結城合戦の際の「結城陣番帳」に「廿四番……三(上カ)穂殿」が見え(笠系大成附録/信史8),また「甲陽軍鑑」の弘治2年信州伊奈退治の項によれば,上穂重清ほか7名が伊那郡狐島で礫刑に処せられたという。天正10年2月16日大島城が織田信忠軍のため落城するとともに上穂重勝は討死した。この上穂氏の居館は,鼠川上流の古城あるいは荒城,あるいは上穂城とも,または太田切川左岸の大田切城とも伝えるが,詳細は不明。地内には光前寺があり,天正8年閏3月18日武田勝頼は旧の如く「光善寺中之徳役」を免じている(光前寺文書/信史14)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7338233
最終更新日:2009-03-01




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