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- 大野郷(中世)とは
「大野郷(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 大野郷(中世) 鎌倉期~織豊期に見える郷名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 鎌倉期に見える郷名好嶋東荘のうち初見は建長5年7月10日の好嶋荘政所差文案で「八幡宮経所造立徴下事」のうちに「六間内 五間 大野」と見え,経所造営の負担として,6間の内5間の板敷が課せられている(飯野文書/県史7)また,文永6年12月9日の八幡宮鳥居造立配分状に「柱一本 番木一 大野分」と見え,東荘2郷の1つである大野分として,柱1本・番木1が課せられていたことがわかる(飯野文書/県史7)なお文永11年8月6日の八幡宮鳥居作料等配分状に「作料銭壱貫弐佰文内」の「銭八百文 東庄内」として「三百文 大野 加奈木定」と見え,東荘内の大野に300文の作料銭が課せられており,「一,鍵折鋨四口内」として「一口〈東庄〉大野」と見え,鍵折鋨4口のうち1口が課せられ,「一,番匠厨十二日内」として,「東庄 八ケ日内」の中に「三ケ日 大野」と見え,番匠厨12日分の東荘8日分のうちとして3日分がそれぞれ課せられていた(同前)永徳4年8月日の好嶋東庄放生会祭礼役注文に「大野郷〈流鏑馬并相撲并講坊〉」とあり(同前),流鏑馬・相撲などが賦課されている浜通り南部,現在のいわき市内に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 南北朝期~戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 鎌倉期~室町期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名下総国下河辺荘のうち鎌倉後期と推定される年月日未詳の称名寺寺用配分置分に「竹岸殿御跡〈坂本郷 佐嘉御文領 下川辺荘内 志摩郷・大野郷〉米一石四斗六升,銭二貫六百三十文」と見え,金沢氏から称名寺(神奈川県)に寄進された所領と思われる(金沢文庫文書/古河市史)天文23年12月24日の足利義氏充行状写に「先御落居之地廿五郷……牛谷・小堤・大野……以上廿五郷」と見え,野田左衛門大夫に充行われている(野田家文書/古河市史)天正2年と推定される12月15日の足利義氏制札写に「関戸・大野百姓可致還住事」と見え,小田原北条氏と簗田氏の関宿合戦によって逃れていた御料所内の百姓の還住を命じる制札が出されている(野田家文書/古河市史)江戸期には上大野村・下大野村が見えるが,天正2年と推定される12月2日の芳春院周興・昌寿連署状写に「上大野 印東次郎左衛門尉」と見えることから(喜連川家料所記/古河市史),現在の総和町下大野に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 南北朝期から見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 大野郷(中世) 室町期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」