ケータイ辞書JLogosロゴ 大野川村(近世)


長野県>安曇村

江戸期〜明治7年の村名はじめ筑摩郡,江戸初期から安曇【あずみ】郡のうち梓川最上流,乗鞍岳東麓に位置し,小大野川・前川が東流して犀川に注ぐ西部に広がる番所が原・位沢・楢の木などから,縄文早期の土器・石器,あるいは灰釉陶器の破片などが出土している中世には西牧領で,早くから材木の供給地であった天正11年8月14日の小笠原貞慶判物案によれば,「一,境目落着者,いねこき・なかわ・おふのかハ代官事」を二木重吉に命じた(御証文集/信史16)慶長19年9月7日小笠原秀政から二木豊後守宛の書状によれば,西牧の惣山作衆に対して,1人につき広敷板100枚ずつを納入するように命じているおそらく松本城の建築用材に使用したものと思われる江戸期は松本藩領上野組に属す上野組に属する入4か村の一つ村高は,文禄年間のものと思われる松本領郷村高附帳(県史近世史料5-1)では筑摩郡に属し6石余,寛永19年の松本領村々高附帳(同前)では15石(畑方のみ),「正保書上」でも筑摩郡に属し6石余,「元禄郷帳」では安曇郡に属し6石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに25石余慶安4年の検地帳によれば,反別は畑のみで3町6反余(うち麻畑1反余),本百姓10・半役3・門百姓1また,川むかい・ひる久保・中平・ひのき前・中畑・ひのき尾・宮のそで・宮の前・小出沢・小大野川・地獄谷さっこう・同湯川渡・同のど・沢しばらなど畑のある地字名が見える当村一帯は藩有林が広がり,住民も大部分が杣仕事に従事している山間地のため,困窮を理由に藩にお救いを求めることも多かった元禄16年の上野組大野川御救い利籾割符面付帳を見ると,この年松本藩は困窮の当村にお救いとして100俵の籾を与えている大野川村ではそのうち20俵を受け取り,残り80俵を里村8か村に10俵ずつ藩から貸し付けてもらい,それに3割の利息を課し,その利籾24俵を得ることにしたこの籾貸付けは享保3年まで15年間続いている村内ではこの利籾を極難者優先に分配したしかし,こののちも当村の難渋は続き,ついに嘉永5年必死のお救いを藩に願い出たこれに対し藩は前例のない措置として,累積した未進と年賦証文をすべて帳消しにするほか,個人の借金も破棄させ,その上30か年賦で籾1,000俵を貸し与えたこのことは藩の山林事業に当村の存続がいかに必要であったかを示しているさらにこの時,大野川村永続基金の名目で松本藩領の村々から金1,000両の義金を募り,これを藩庁が利付きで預かり,年々その利子を大野川村の年貢勘定にあてることにしたこの1,000両の元金は簡単に願い下げないことを確約した上で藩が預かったが,畑作の不作など理由に,10年を経ずに請出し使い切ってしまった慶応2年の凶作の際の村況を見ると,作柄はソバ・大豆・稗・粟合わせて504俵(平年作は1,562俵),家数99・人数445,うち杣職人101・同見習19とある神社は諏訪大明神(のちの梓水神社)があるほかに観音堂があった明治4年松本県を経て筑摩県に所属明治初年の戸数101・人口419(県市町村合併誌)明治6年島々村温智学校大野川派出所が開設同7年安曇村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7338399
最終更新日:2009-03-01




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