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- 大日向村(近世)とは
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大日向村(近世) 江戸期~明治9年の村名小県【ちいさがた】郡のうち千曲川支流神川【かんがわ】の上流域に位置する元和9年あるいは貞享年間~元禄年間に甲石【かぶといし】村から分村して成立(小県郡史)上田藩領村高は「旧高旧領」264石余庄屋・組頭が置かれ一村として取り扱われていたが,郷帳類では江戸期を通じて甲石村の高に含められていた集落は神川と和熊川の合流点付近の河岸段丘上に大日向が,神川支流渋沢川上流に渋沢が,同支流大洞川中流部に大洞が,同川上流部菅平高原に菅平がある元禄6年に藩の口留番所を設置(小県郡史)鳥居峠西麓の渋沢は上州道と大笹道の分岐点で大問屋があり江戸期~明治期の物資輸送の中継地となった宝永3年の甲石之郷指出帳(上田藩村明細帳)に当村分として家数53・人数256,馬25,諸役として馬草・馬藁・すぐり藁・葺茅・糠・渋柿・蔵下敷藁を差出した大名通過時には上田宿・田中宿へ寄馬を命ぜられた薪取場は真田村から上流の野山で取った百姓の自分林は69か所,用水堰は2か所あった享保2年以後中山道塩名田宿・八幡宿の加助郷の村となる(小県郡史)元文4年の家数63・人数389(同前)明和元年の裁許による中馬数16菅平高原はかつて沼平ともいわれ低地は標高1,250mの湿地帯であった江戸初期から境界論・山論があり,加えて高冷地のため未開発地であった元和年間に松代真田家預人加藤道光が郷士となって開墾したのが最初である(松代町史)その後弘化4年善光寺大地震で水害を受けた上田藩川中島の農民が入植開墾する幕末の嘉永3年には上田藩による実地踏査が実施され,同4年から薬草栽培が始められたまた明治3年には上田藩士が帰農奨励されて入植した(すが平その自然と人文)寺社は明神宮,ほかに小宮11社,地蔵堂・観音堂・阿弥陀堂・薬師堂があった明治元年の大日向村の家数72・人数537(小県郡史)明治4年上田県を経て長野県に所属同8年の田12町余・畑81町余・宅地5町余(県町村誌)同年菅平大笹街道下・和熊・中之沢・明神沢・菅平にかけて4,300町が神川水系57か村の入会地となる(小県郡史)同9年長村【おさむら】の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大日向村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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大日向村(近世) 江戸期~明治9年の村名高井郡のうち大日向新田ともいう坂田山南麓灰野川右岸段丘上の村落須坂藩領天保4年須坂藩の領内扶食囲置定并請書に坂田村と上灰野村・灰野村の間に「大日向新田,籾雑穀共扶食ニ可相成分,高347俵余,此米92石余,2斗8升3合挽,此人数91人」とある明治4年須坂県を経て長野県に所属同9年園里村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」