ケータイ辞書JLogosロゴ 小野山郷(中世)


長野県>丸子町

 戦国期に見える郷名。小県【ちいさがた】郡のうち。尾山とも書く。天文9年武田氏は佐久郡を手中におさめ,同10年5月13日「(諏訪)頼重,武田信虎為合力海野へ出張,同村上殿三大将同心にて尾山せめをとされ候」と尾山城を攻略するが,同13年6月福沢顕昌が伊勢大神宮に奈良本・内村とともに「尾山之義者,如前々可有所納候」と当地を寄進しており,この頃は村上氏の支配下にあった(神使御頭之日記・広田文書/信史11)。天正6年の下諏訪春宮造宮帳によれば,「同(依田)庄之内小野山之郷」は永正3年の諏訪社下社春宮御柱造宮料を課されており,同帳および天正7年の下宮春宮によると天正6〜7年にかけても造宮料を負担している(信叢2)。また,足利尊氏の将小笠原為経と足利直義の将諏訪直頼との合戦に伴う観応3年正月日の佐藤元清軍忠状案に「信濃国小県郡夜山中尾」,同じく正平7年正月日の武田文元軍忠状に「信州夜山」と見える(佐藤文書・古文書/信史6)。夜山は尾山に通じ,当地内に中尾の字があることから,この夜山は小野山を指すと考えられている。なお前述の尾山城(尾野山城)は,依田川と千曲川の合流点の南西にあたる長く突き出た山塊の頂部にある山城で,天文年間〜永禄年間にかけて尾山氏代々の居城として利用されたものと思われ,真田氏時代にも千曲川の南の拠点として重んじられた(城郭大系)。永禄10年8月7日生島足島社へ起請文を捧げた海野衆の一人に尾山右衛門尉守重の名が見える(生島足島神社文書/信史13)。同城の東方に位置する茂沢城(笹谷城)は同城の砦と考えられ,東南山腹の通称孫台はその居館と伝えられている。当地は,「義科相伝抄」の奥書に「観応元年十月十一日書之,於信州小懸(県)郡依田庄越智福是山談所書写処也,執筆静弁〈二十才〉,授与静證供奉」と見える談所の所在地ともいう(信史補遺上)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7338569
最終更新日:2009-03-01




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