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下原村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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下原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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下原村(近世) 江戸期~明治7年の村名小県【ちいさがた】郡のうち烏帽子岳西麓,神川【かんがわ】左岸の扇状地の扇端部と段丘上・段丘崖下に位置する地名は扇状地面の地形「原」に由来するか元和8年原之郷から分村して成立上田藩領村高は「旧高旧領」562石余江戸期を通して郷帳類では原之郷として記載されたが,庄屋・組頭が置かれ一村として扱われていた集落は下原とその北にある大畑に点在している大畑は傍陽への分岐点に位置し,交通の要地である宝永3年の原之郷指出帳(上田藩村明細帳)に当村分として,家数51・人数288,馬24,諸役として馬草・萱・藁・蔵下敷藁・渋柿・馬用糠・薪を差出した享保2年以後,中山道塩名田宿・八幡宿の加助郷の村となる(小県郡史)大名通過時には上田宿・田中宿へ寄馬を命ぜられた薪取場は赤井山・真田・大ぼら・洗馬【せば】山・大松尾山に,草刈場は大日向山・洗馬山・軽井沢山に入会地があった享保20年の家数67・人数344(同前)天明3年北上州で発生した梵天騒動(上信騒動)は原之郷を通り上田城下へ入ろうとしたが,当村境の川久保橋で藩の追手により鎮静化された(同前)江戸中期から養蚕業が,また幕末には蚕種業が導入され,慶応3年の蚕種製造家数6,製造枚数775,輸出もされた(上田小県誌)寺社は指出帳に伊勢宮・六角堂,禅宗自性院が見える明治元年の戸数49・人数351(小県郡史)明治4年上田県を経て長野県に所属同7年本原村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下原村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国速見【はやみ】郡八坂【やさか】荘のうち八坂川左岸に位置する文禄4年前田玄以領,慶長元年杉原長房領,同4年中津(のち小倉)藩細川領,寛永9年木付(のち杵築)藩領,元和8年の「小倉藩人畜改帳」の安住寺村に「但下原村共ニ」とあり,村高124石余,木付下庄に属し,長岡興長領「正保郷帳」では八坂荘下庄村に属す村高は「見稲簿」14石余,「天保郷帳」「旧高旧領」20石余文久3年畑1町5反で,田はない(工藤家文書)村の東は城下町,南は下司【げし】村,西は宗近【むねちか】村に囲まれた台地上の村落で畑作地帯である細川領時代,森永手永,延宝7年八坂手永,文化元年頃八坂郷の下司組に属し,下司村の専頭庄屋の支配を受けた当村は城下町の武家屋敷の馬場丁【ばばんちよう】の西側にあり,台地上の集落で水田がなかった杵築藩の農村は水田に七島藺を植えて七島表(畳表)を織り,豊後表【ぶんごおもて】として全国に移出し,そのために他領の農民に比して,経済状態はよかったしかし当村は畑地だけであったので,畑地栽培七島藺は収益も少なく,七島藺の苗を育てていた下原稲荷は信仰する人が多い明治4年大分県に所属同8年宗近【むねちか】村ほか4か村,杵築城下の魚町ほかと合併して南杵築村となる現在の杵築市大字南杵築のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下原村(近世) 江戸期~明治10年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下原村(近世) 江戸期~明治8年の村名備前国和気郡のうち金剛川の下流氾濫原と神上【こうのうえ】山南麓に位置する地名は,古代和気郡衙の下方の原であったことによるという天正17年6月27日の安養寺正税帳(安養寺文書/県古文書集1)に「下原ノ与三郎」と見え,中世には安養寺領であったことが知られる宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領村高は,「領分郷村高辻帳」115石余,「備陽記」で117石余,「天保郷帳」「旧高旧領」で138石余化政期の和気郡手鑑(和気郡史)で高115石余・又高23石余,田4町余・畑6町余家数・人数は,「備陽記」で49軒・344人,和気郡手鑑で46軒・187人なお,紺屋が10軒あった明治4年岡山県に所属同5年野吉村にあった118番小学,同7年野吉小学の学区となる同8年泉村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」