ケータイ辞書JLogosロゴ 日影村(近世)


長野県>鬼無里村

 江戸期〜明治22年の村名。水内【みのち】郡のうち。松代藩領。村高は,「慶長打立帳」553石余,「正保書上」「元禄郷帳」ともに555石余。「天保郷帳」657石余,「旧高旧領」665石余。天保11年の本新田高付帳では,本田553石余・新田108石余,免2ツ7分。元禄年間の信濃国絵図仕立帳では日影村枝郷として35か村をあげているが,そのうち落合村・屋萩村・枝沢村は寛文年間,柄山【からやま】村は延宝4年,細畑村は天和元年,白菅村は貞享2年に起立された(信叢23)。元禄10年の堂宮改帳によると,白髪大明神(現白髯神社)・春日大明神・日ミこ社など21社,地蔵堂・十王堂・薬師堂など15堂があった。松本藩領に境を接した安曇【あずみ】往来にあったため番屋原に松代藩の口留番所が置かれた。正徳3年の人口740。文化6年の人口1,115(松城封内人員),天保9年の戸数285・人口1,201(鬼無里村史)。年貢として蕨・蕎麦・熊皮・雉子を上納した。明治4年松代県を経て長野県に所属。同12年上水内郡に属す。明治9年瀬戸川村の一部を編入。明治8年の田54町余・畑191町余・宅地10町余,同15年の戸数260・人口1,351,馬146,主要産物は米152石・蕎麦160石余・稗621石余・麻1,690貫・畳糸1,370貫・蚊帳115反・炭900貫などのほか野菜・山菜があった(県町村誌)。明治7年日影学校を創設し,上平・府成・山内に支校を置いたが,同20年鬼無里学校に統合。同22年鬼無里村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7341098
最終更新日:2009-03-01




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