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平沢村(中世) 南北朝期~戦国期に見える村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平沢村(中世) 南北朝期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平沢村(中世) 南北朝期~室町期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平沢村(中世) 戦国期から見える村名出羽国秋田郡のうち天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写に,「平沢村 鱒川村」75石余とあるのが初見(秋田家文書)現南平沢【みなみひらさわ】墓地に現存する南北朝期の五輪塔の基礎2個は,開村の古さを示す安土桃山期を通じ安東氏領天正末期から知行制のもとに支配を強化,慶長4年の渡会助右衛門代官所物成算用状に,「平沢村之内なわはつれ九石 但まハし口米共ニ」とあるおそらく渡会氏の知行下にあったものと思われるまた男鹿【おが】半島南岸に位置するため本山【ほんざん】と関係が深く,文禄3年にも秋田実季は,当村の7石7斗余を赤神権現に寄進(秋藩家)その範囲は近世の南平沢村と一致する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平沢村(中世) 戦国期に見える村名越前国大野郡小山荘のうち永正元年12月25日の宝慶寺寺領目録に「大柱 〈小山庄内平沢〉」分米6斗と「平沢〈同平沢内一町田〉」分米12石が見え(宝慶寺文書/大野市史社寺文書編),永禄12年6月16日の同寺領目録には「平沢村」として7筆,14石4斗をあげている(同前)江戸期には平沢領家村・平沢地頭村となっている... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平沢村(中世) 戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」