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- 横尾村(近世)とは
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![]() | 横尾村(近世) 江戸期~明治8年の村名備前国邑久【おく】郡のうち古くは横尾山村といった(元禄郷帳)千町川の南東にある丘陵上に位置する地名の由来は,古代備前四十八か寺の1寺,横尾山静円寺の寺領内を中心に成立したことによるという宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領村高は,「領分郷村高辻帳」「備陽記」163石余,「天保郷帳」「旧高旧領」220石余寛文年間以降,筆頭家老伊木氏の給知分は135石(邑久郡史)江戸中期から大庄屋大ケ島村組合22か村の1つ,名主は中島家・木村家・古武家が勤めた(邑久郡大手鑑)「備陽記」では,反別17町余,家数26・人数100なお宝永年間の家数26・人数110,文久年間には23軒・96人という(邑久郡史)地内中央に静円寺があり,静円寺縁起によれば,行基の開基,報恩大師が備前四十八か寺の1つに選び,弘法大師が真言道場に定めると伝える幾度かの炎上と再建を重ね,現在のものは江戸初期に再建されたもの境内の多宝塔も元禄年間の建造,寺領高は元禄年間に15石,僧坊は寛文年間に5か院鎮守は光明院境内に八幡宮があったが,寛文年間に大土井八幡宮に合祀天保4年中島東吉は自宅に寺子屋群玉堂を開設,郡内最大の規模となり卒業生数500明治4年岡山県に所属同5年地蔵院に横尾小学が設置,生徒数192同7年には田12町9反・畑5町9反同8年本庄村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 横尾村(近世) 江戸期~明治7年の村名山本郡のうち合志【こうし】川支流豊田川の左岸に位置する熊本藩領もとは今藤村の一部という村高は「旧高旧領」125石余「肥後国誌」によれば正院手永に属し,高125石余,小村に立山,神社に氏神祇園社と熊野権現社がある文政9年の正院手永手鑑帳(肥後国郷村明細帳1)では,高124石余,反別は田3町3反余・畑9町3反余熊本県を経て,明治5年白川県に所属同7年豊田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」