ケータイ辞書JLogosロゴ 和田村(近世)


長野県>和田村

 江戸期〜明治22年の村名。小県郡のうち。はじめ上田藩領,元和9年徳川忠長領,寛永2年小諸藩領,寛文2年甲府藩領,元禄15年から幕府領。村高は,「寛永石高帳」617石余,「正保書上」「元禄郷帳」とも同高,「天保郷帳」1,122石余,「旧高旧領」1,121石余。慶長7年中山道和田宿が成立。中世末からの歴史を持つ中町・下町と新たに町割をした上町の3町で宿を構成したが,手狭となり,正徳3年追川越に八幡林までの橋場新田をつくった(上田小県誌)。天保14年の宿概況によると,宿内町並7町58間,家数126・人数522,中町に本陣1・脇本陣2があり,旅籠屋28,問屋はもと中町1,文政3年から下町1が加わり,2軒で半月交代、宿建て人馬50人・50疋,うち急用の際の囲い人馬5人・5疋は枝郷の加宿役ときまっていた(宿村大概帳/近世交通史料集5)。継立てをする下諏訪までは5里半と遠く,しかも街道随一の難所和田峠越えがあった。文政3年の道掃除村高帳によると,峠の道造りや雪踏み,雪掘りの必要区間は111町53間で,37か村の和田宿助郷に割当てられてあり,度や近郷の伝馬の消耗は甚大であった(和田村誌)。なお和田宿の特色として,木曽伊那から木材を江戸に送るための木問屋があった(上田小県誌)。村全体の取口の推移は元禄14年314戸・1,600人,宝暦7年455戸・1,931人,文化3年472戸・1,771人,慶応4年479戸・1,834人(和田村誌)。なお文久元年3月大火で中町から下手へ129戸を焼失したが,本陣ほかを大急ぎで復旧して11月の和宮降嫁の大行列を送迎し,語り草となった。神社は大宮社。天保3年和田神社と改称。寺院は,和田城主の霊を弔うため創建と伝える曹洞宗信定寺,文政3年立川和田四郎建築の本堂を有する真言宗菩薩寺。明治2年伊那県となり,同3年中野県を経て,同4年長野県に所属。同8年調の戸数508・人口2,139,馬113,人力車6・荷車12,反別は田166町余・畑110町・宅地18町・私有林126町・官有林455町,同13年の製造物には生糸139貫・半紙4,650束・御種人参610貫・蚕繭160石がある(県町村誌)。同22年市制町村制施行による和田村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342244
最終更新日:2009-03-01




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