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- 和田郷(中世)とは
「和田郷(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 和田郷(中世) 南北朝期~戦国期に見える郷名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 和田郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 和田郷(中世) 南北朝期~戦国期に見える郷名三河国碧海郡のうち応永以前は郷の東側を乙川が南流していた碧海荘に属したと見られるが,和田荘と称した時期もあった越後本成寺の仏像の胎内にあった応安5年7月7日の聖教奥書に「三河国和田郷法華堂」とある(妙国寺文書/岡崎市史6)この法華堂は宮地の日蓮宗妙国寺のことで,土岐頼直法名日道が興国2年に開いたという当地は真宗和田門徒の拠点として知られる貞治3年9月2日の三河念仏相承日記に「性善房 和田教円坊兄也」「和田ノ信寂ヒジリ」が見え(上宮寺文書/同前),建長8年に高田の顕智を迎えて最初の門徒となった権守円善の住居地は「和田」であった(妙源寺本親鸞聖人門侶交名牒/真宗史料集成1)円善の子信願は碧海荘赤渋に道場を建て,和田門徒の中心にあった徳治2年10月三河へ下った本願寺覚如は,親鸞が書写した「上宮太子御記」を造岡道場から借りて「和田宿坊」で写している「建内記」正長元年5月28日条に「和田庄」が見え,裏松義資の所領であったのを足利義教が取り上げ,和田某に宛行ったとある(古記録)日野裏松家領となった時期は「先御代」(足利義量か)の時で,和田氏に裏松家から100貫文の年貢を渡すという条件であったが,その不履行を和田某が訴えたのでこの処置に及んだという和田氏はこの地の本領主であろうが,幕府奉公衆和田氏の同族かどうかは未詳永正8年4月8日に実如が下付した阿弥陀如来絵像裏書写に「勝漫(鬘)寺門徒三州碧海郡碧海庄和田郷光顔寺」とある(清水文慶氏所蔵文書/岡崎市史6)天文6年3月12日六名天神居屋敷を浄珠院に寄進した松平信孝寄進条は,上和田にある浄珠院を「和田」と記しており(浄珠院文書/同前),「家忠日記」天正16年7月3日状にもこの寺を「わたのしやうしゆ院」としている江戸期の上和田・宮地・井内・野畑・下和田・坂左右【さかそう】・法性寺・牧御堂・上土井・下土井・赤渋・福島新田の12か村に相当し,これらを和田12郷と総称した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 和田郷(中世) 鎌倉期から見える郷名男衾【おぶすま】郡のうち初見は嘉慶3年2月3日の官宣旨に,鎌倉(神奈川県)浄光明寺領として「男衾郡内和田郷」が見える(浄光明寺文書/相州古文書),次いで明徳4年3月晦日の足利氏満御教書にも当寺領として見えている(反町文書/武文)さらには応永27年12月21日の足利持氏御教書にも当寺領として見えている(浄光明寺文書/相古)現在の熊谷【くまがや】市から大里村にわたる一帯に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 和田郷(中世) 南北朝期に見える郷名相模国高座【たかくら】郡のうち正平7年正月2日の足利尊氏充行下文(清源寺文書/県史資3上‐4120)に,「相模国和田・深見両郷」と見え,尊氏が一族の南宗継に,観応の擾乱に伴う活動に対して,勲功の賞として他の地域とともに当郷を宛行ったことが知られる戦国期の「役帳」には上和田・下和田が見える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」