ケータイ辞書JLogosロゴ 饗庭荘(中世)


岐阜県>大野町

 鎌倉期から見える荘園名。美濃国大野郡のうち。鎌倉初期には高倉天皇乳母女房別当三位家が領家職を保持する宣陽門院領で,地頭佐々木判官定綱が入部して検注を行っている。承久の乱後は地頭職を土岐氏が帯し,光行―光俊―国綱と相伝,国綱の子国行は「饗庭東庄内屋井郷」を譲られ屋井氏を名乗った。国行の子国清の時,雑掌との間に検地抑留と年貢対捍をめぐる相論が起こるが,弘安2年6月の国綱と預所の和与状を論拠に,元亨元年6月27日付の関東下知状によって国清方が敗訴となった(秋山喜十氏所蔵文書)。当時領家は鷹司家で,以後同家領として相伝され,「康富記」文安4年9月2日条に「鷹司(房平)殿御領美乃国饗庭庄」と見える。次いで「山科家礼記」長享2年3月25日条によれば「美濃国大野郡饗庭下方之内,妙覚寺々領分内」の年貢7貫文の運上を土岐本庄民部少輔が命じられている。戦国期に入ると「七貫五百分 饗場」が竜徳寺領中に見え(竜徳寺文書),天正19年閏正月17日豊臣秀吉は津田一安に「美濃国饗村」428石余を宛行っている(簡集残編)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342265
最終更新日:2009-03-01




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