ケータイ辞書JLogosロゴ 青墓(古代)


岐阜県>大垣市

 平安末期から見える地名。美濃国不破【ふわ】郡のうち。鎌倉街道と呼ばれた東山道の宿場で青墓宿・青波賀駅といい,平安末期にはすでに著名であった。慈円大僧正によって「一夜見し人の情に立ちかへる心にやとるあふ墓の里」と詠まれ(拾玉集),藤原敦光(1144年没)の詩に「青冢【はか】の草疎にして 馬春を待つ」の一句があり,「濃州の傀儡子【くぐつ】,居る所これを青冢と謂う」と註している(本朝無題詩)。また後白河法皇は青墓・墨俣の遊君を招いて今様の伝授を受けている(梁塵秘抄口伝集)。当地の長者大炊氏の娘延寿は源義朝の妾となって夜叉御前を生んでいたが,平治の乱に敗れた義朝は大炊氏を頼って当地へ落ち,負傷した二男朝長【ともなが】を生害させ円興寺に葬った(平治物語)。のち戦国期には大谷村とも呼ばれ,天正14年9月21日付那波和泉守正信宛豊臣秀吉知行目録写に「百八拾八貫六百八拾文 大谷村」と見え(名和文書),安八【あんぱち】郡曽根城主那波氏の所領であった。大谷村の呼称は戦国期から江戸初期にかけて併用されていた。年未詳(慶長期か)11月8日付大墓宿町人中宛浅野長政折紙によれば,当時町人の逃散で青墓は退転しており,長政は逃散町人の還住を命じている(市田家文書)。なお,現在大垣市榎戸町地区には照手姫の水汲井戸と伝えるものがある。これは姫が情人小栗判官を訪ねて諸国を流浪,当地にも来て長者の家に住み,日々水を汲んだ井戸の跡と伝えている(不破郡史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342281
最終更新日:2009-03-01




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