ケータイ辞書JLogosロゴ 茜部荘(古代)


岐阜県>岐阜市

 平安期から見える荘園名。美濃国厚見【あつみ】郡のうち。東大寺領。現在の岐阜市南部に位置し,荘域は国鉄東海道本線西陸橋から真南の線を西限に東へ15町,城南通付近を北限に南へ28〜32町。当時は南堺が美濃・尾張の国境をなす木曽川(尾張河)で,同川氾濫の際の冠水地帯であった。はじめ厚見荘と号し,初見は弘仁9年3月27日付の酒人内親王施入状。もと桓武天皇勅旨田で大同4年立券荘号,同天皇皇女朝原内親王に伝領され,同親王の臨終遺言により,母酒人内親王から東大寺法華会料所として寄進された。当時墾田117町余の荘園であったが,一時洪水によって荒廃,再開発されたものか,天徳4年にはすでに茜部荘と改称されている。その後,平安期を通じ国衙との抗争,西境平田荘鶉【うずら】郷・東境市橋荘・北境平田荘加納・南境尾張国領との境相論が繰り返されるが,その間,康和5年には絹100疋・綿1,000両の百口学侶衣服料所となり,久安年間には預所を中心とする支配組織が確立した。鎌倉初期には荘内は本郷・上村・下村の3か村に分かれており,上村に式内社比奈守(飛田守)神社,下村に式内社茜部(県明)神社・鎮守八幡宮があった。承久の乱後,大江広元の第2子長井時広が地頭となり,貞応2年には地頭請所とされたが,文永年間以降,地頭側の年貢の未進・遅済と代銭納について相論が続き,鎌倉幕府滅亡後の元弘3年後醍醐天皇綸旨によって地頭職が寄附され,ようやく東大寺の一円支配が回復した。しかし,数年を経ずして再び地頭が設置されたらしく,暦応3年には地頭と寺家の間で和与による下地中分が行われ,荘内3村のうち上村が寺方,本郷・下村が地頭方となった。中分により上村は寺家一円領となったが,以後も東大寺の支配は貫徹し得ず,14世紀半ばから給主による支配が始まり,南北朝末期には請負代官を採用,寛正2年2月5日付の東大寺公人清安の代官職請文を最後に東大寺側の史料は絶え,以後わずかに「大乗院寺社雑事記」文明9年12月13日条,同13年8月16日条に東大寺支配の証左を見るにすぎない(東大寺領美濃国茜部荘大井荘古文書・県史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342307
最終更新日:2009-03-01




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