ケータイ辞書JLogosロゴ 明知荘(古代)


岐阜県>可児市

 平安期から見える荘園名。美濃国可児郡のうち。はじめ藤原氏領,のち石清水八幡宮領。10世紀末の藤原実頼以来,斎敏〜懐平〜経通〜経平〜通俊と百数十年間藤原氏が伝領。承暦2年経平は当荘の本公験焼失につき左京職の証判を求め,左京職判・国判・郡判を得たが,この時の経平の解状によれば,当荘は可児郡曰理【わたり】・郡家【ぐうけ】両郷にまたがり,四至は東が大石東峰,西が可児河尻,南が厳山と峰,北が可児川であった。通俊のあとは石清水八幡宮23代別当頼清に伝えられ,さらに頼清から光清〜美濃局〜道清〜宗清〜行清と鎌倉初期まで頼清の子孫が継承した。この間光清の代の元永元年,当荘の地利をもって石清水八幡宮大塔院の仏聖灯油料にあてることが定められ,同年光清は改めて公験に任せ一円不輸の大塔院領となすことを朝廷に請い許された。建久7年11月の「八幡宮領明知御庄」の実験田目録によれば,荘田187町余,うち荒田・損田75町余,得田111町余,除田24町余で,除田は定使・下司・公文・預・京上禰宜の人給田8町余と佃1町5反余,仏神田40町余からなっており,定得田86町余のうち本田からは反別平均8丈ほどの絹,古作新田からは反別6束,新々田からはその半分ほどの斤定稲を収納。また寛喜2年には権別当宗清置文により,若宮長目御油を10月に2升4合,11月に2升8合負担することが定められた。その後室町初期には,当荘は上郷・下郷(上荘・下荘とも)に分かれていたが,行清6世の孫保清が領家職を帯しており,応永20年彼は寺主某に領家年貢上郷85貫文・下郷65貫文を請け負わせている(石清水八幡宮文書/県史)。室町末期には在地勢力の進出で,八幡宮の年貢収納は困難となったとは推定されるが,年未詳3月6日の賀茂郡善恵寺衆徒宛斎藤妙椿書状によれば,妙椿死去ののちは「明智庄」より何がしかのものが善恵寺に寄進されることとされており(善恵寺文書),15世紀末の当荘はすでに守護代斎藤氏の支配するところとなっていた。なお,本能寺の変で著名な明智光秀の出自は,当地を本貫とする土岐明智氏であるという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342337
最終更新日:2009-03-01




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