ケータイ辞書JLogosロゴ 池田町屋村(近世)


岐阜県>多治見市

 江戸期〜明治22年の村名。美濃国可児【かに】郡のうち。尾張藩領。江戸初期は池田村のうち。はじめ給人酒井半左衛門の知行地,のち尾張藩蔵入地となり水野代官所の支配下(濃州徇行記)。村高は「天保郷帳」754石余,「旧高旧領」751石余。寛政2年の家数123・人口523(池田町屋村田畑帳),文化期の家数116・人口518。尾張から信濃へ通じる下街道筋に当たり,寛文2年宿駅となり,坂下・高山への継立を行う。元賃銭は坂下へ人足1人80文・本馬1匹160文・軽尻馬1匹122文,高山へ人足1人72文・本馬1匹126文・軽尻馬1匹92文。当地は名古屋へ行くのに小牧宿を通過するよりも3里も近いため,伊勢神宮参拝に利用され,春先にはにぎわったという。町並みは4町ほど続き,百姓の余力で営む旅籠屋が多かったという(濃州徇行記)。池田五山と称された5か寺のうち,蓮華院は寛永年間僧周呑が再興し石動山永泉寺と改め,華厳宗より曹洞宗に改宗。また仏光院・観音寺は合併あるいは改宗し現在の永泉寺となった。医師小池家は寛永3年の開業以来8代まで眼科を主としまた内科の治療にもあたり,寛政5年には1年間に473人の患者,入院患者は多い時には30人いたという(小池家諸願届)。明治初年の自由民権家小池勇はその裔である。明治4年岐阜県に所属。同5年村明細帳の戸数185・人口712。同6年野中・北村両村との組合立で苟新【こうしん】学校(池田小学校の前身)を創立。同8年田中村の一部となるが同18年再び分村。同年の戸数185・人口823。同22年池田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342552
最終更新日:2009-03-01




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