ケータイ辞書JLogosロゴ 市橋荘(古代)


岐阜県>岐阜市

 平安末期から見える荘園名。美濃国厚見【あつみ】郡のうち。はじめ仁和寺大教院領,永治2年からは御室御領。成立年代は未詳だが,大治元年には桑木の注文取帳が作成されており,永治元年ごろには内牧郷・「へふのかう(別符郷)」など6郷よりなる300余町の広大な荘園であった。当荘の西側は友河の流れをもって東大寺領茜部【あかなべ】荘と接していたが,永治のころ,洪水で友河の流路が変わり,8条9里・10里の田地・在家敷地12町5反をめぐって茜部荘との間に相論が起こっている。この頃内牧郷は右馬権頭の所領といわれており,また承安元年には同郷と「へふのかう」を「たく女」に譲った人物がいることなどから,荘内六郷の領家あるいは預所は各別であったとも推定される(平遺2452・2454・2469・5012・5052,東大寺領茜部荘・大井荘史料集)。永治元年当時,下司は藤原道定であったが,その後,承久の乱で当荘下司は京方につき,その没収跡は源満仲の孫頼遠を祖とする石河光治に勲功賞として宛行われた(尊卑分脈)。石河氏の知行は南北朝期にも続いており,南北朝期には石河義煕やその子初犬丸らが「市橋荘高柳郷」や平田西荘の田畠を立政寺に寄進,一方このころ,荘の領家は二条家で,二条家預所も盛んに荘内田畠を立政寺に寄進している(立政寺文書)。その後,いつのころか当荘は梅津是心院の寺領となっており,文明のころには一条兼良の息が院主となり,当荘に在荘していたという(桃花蘂葉・県史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342661
最終更新日:2009-03-01




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