ケータイ辞書JLogosロゴ 鵜飼荘(中世)


岐阜県>岐阜市

 鎌倉期から見える荘園名。方県郡のうち。安貞2年8月5日付の七条院(藤原殖子)御領目録(東寺百合文書)に見え,鎌倉初期には七条院領。初見は建保3年10月18日の鵜飼荘沙汰人・百姓申状案。同状は当時地頭と領家預所との間で相論があり,山野検断・魚年貢について前地頭山内与一右衛門の先例が注進したもの(熊谷文書)。この時の地頭が何者かは不明だが,鎌倉末期には本郷氏が地頭となっており,本郷泰朝が弘安9年・正応3年の両度,若狭国本郷と美濃国鵜飼荘地頭職を子の隆泰に譲っている(県史・本郷文書,ただし石清水八幡宮文書,永仁3年12月21日付の鎌倉将軍家政所下文写では鵜飼荘ではなく,雛倉荘となっている)。正安2年正月23日,沙弥了道なる者が「鵜飼西庄上三ケ村今村藤四郎入道かやしき名田」を甥新三郎泰高に譲り,元応元年6月5日幕府の外題安堵を得ているが,これは本郷隆泰の縁につながる人であろう。そして当時,荘は東西に分かれ,さらに西荘は上下に区分されて,上3か村が存在したことが知られるが,西荘上3か村では鎌倉末期,近隣葦敷郷との間に水論が起こっている。しかしこの水論の行方も定まらぬ間に,当荘地頭職は本郷氏の手を離れたらしく,貞和元年2月付の足利尊氏袖判下文をもって「美濃国有武東郷内金光寺・同国鵜飼庄地頭職」が勲功賞として熊谷直経に宛行われている(熊谷文書)。その後当荘地頭職は熊谷氏から土岐高山氏へ,さらに佐々木京極氏へと移ったらしい。室町期の応永10年,当荘地頭職は佐々木高光の領知するところとなっており,同年2月28日守護使不入の地とされた。その後,相国寺鹿苑院に寄付されたが,高光は「土岐高山跡」として当知行の旨を支申し,元のごとく領知することを認められている(佐々木文書)。以後は「蔭涼軒日録」永享9年6月15日・長享2年7月5日条に見え,当時相国寺林光院領であったことが知られるのみ。東西あるいは上下がどの範囲を指すか未詳だが,「濃陽志略」によれば,折立・古市場・今川・洞・交人【ましと】・黒野・小野・御望【ごも】・下鵜飼の9か村を鵜飼荘・鵜飼九郷と称したという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7342855
最終更新日:2009-03-01




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